が君に調和して……」
 彼の友達で洋服の柄とか仕立とかを気にするのを命にしてゐる慶應義塾の学生が、羨し気に彼の肩を叩いて云つた。
「…………」
 彼は泥だらけの靴の先を瞶めてイヤに含羞《はにか》んでゐた。
「それは何処で作つたんだい?」
「…………」
「斯う云ふと変に君を煽てるやうだが、尤も君にはさういふ好さは解らないから困るが、俺、此間オブロモフといふ小説を読みかけたんだよ、その小説の初めの方にオブロモフといふ男の着物のことが書いてあるんだ。彼は部屋に居る時、何か薄いガウンのやうなものを着てゐるさうなんだがね、それが非常にだぶ[#「だぶ」に傍点]ついてるんだつてさ、それはまアどうでもいゝがその形容の詞《ことば》が面白かつたんだよ、――オブロモフの着物は、彼がそれを着てゐるんぢやなくつて着物の方が美しい奴隷の如く従順に彼に服従してゐるんだつて……少し俺が面白がり過ぎて翻訳し過ぎたかも知れないが――、その彼の体が五つも入る位ゐな……若しそれが脱ぎ棄てゝあつたならば、誰だつてそれが彼の着物であるとは思へないそれ[#「それ」に傍点]が一度彼の体を包むと……」
 友達は、さう云ひかけて彼の肩に腕を載せた。たしか冬だつたらう? 友達が喋るに伴れて口から息の煙りが出てゐたから。
 彼は、そんなことを云はれると、まつたくわけ[#「わけ」に傍点]は解らなかつたが、一寸嬉しかつた。オブロモフなんて称《い》ふ小説は読んだこともなかつたが、そんなとてつ[#「とてつ」に傍点]もない代物に比べられたので、自分が偉くなつた気がしたのだ。そして彼は、それ位ゐ有名な小説を読んでゐなくては軽蔑されさうな気がしたので、
「あゝ、オブロモフか。」といかにも軽やかな知つたか振りを示して空とぼけた。
「実にあれは素晴しい小説だね。近代文学の要素たるアンニユイの凡てを抱括してゐる。そして、全篇一脈の音楽的リズムに依つて渾然と飽和されてるぢやないか。」などゝ友達は図に乗つて書物の広告文見たいな言葉を発した。
 此奴の頭は少々怪しいぞ――彼は自分が何も知らない癖に、もう相手を馬鹿にした。
「うむ、さうだよ。」と彼は答へた。肯定さへしてゐれば自分のボロも出ないで済む……などゝ至つて狡猾な量見を持つてゐた。
「まア、そんなことはどうでも好いんだが。」と友達は慌てゝ言葉を返した。「実は僕、君のこのコートが欲しくつて堪ら
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