ガール・シヤイ挿話
牧野信一

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)予々《かね/″\》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)何|故《ゆゑ》に

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)非常に/\。
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 僕(理科大学生)は、さつき玄関でチラリと娘の姿を見たばかりで一途にカーツと全身の血潮が逆上してしまつて(註、ガール・シヤイを翻訳すれば、美しい女を見ると無性に気恥かしくなつて口が聞けなくなる病――とでも云ふべきであらう。)慌てゝ自分の部屋へ逃げ込んでしまつた。
「おーい、二郎、来ないか?」
 兄貴が呼んだ。僕はゾーツとした。――斯う逆上すると、それが何んな原因に依る感情であるか(有頂天の法悦にひたり酔つてゐた筈だツたが)――などといふことは反つて忘れてしまつて、厭世観に誘はれて来る。
 僕は堅くなつて兄貴の部屋に入つて行つた。わざと何気ない素振りを装はうとする努力が、却つて僕の態度を堅くしてしまふのだ。
 兄貴は僕の顔を見るがいなや、変に快活気な調子で、
「フロラさんだよ。」
 と、僕も噂にだけは聞いてゐたアメリカ娘を紹介した。噂に聞いてゐた時よりも、ずつと美しいので僕は内心酷く驚いてゐた。
「おゝ、ジロウ――お前のことは予々《かね/″\》お前の兄から……」
 フロラは流暢な自国の言葉で、洗練された愛嬌を振りまきながら腕を差し出した。それだけ解つたゞけで、何んな言葉を云つてゐるのか僕にはさつぱり解らなくなつてしまつたが、辛く微笑を湛へて恭々しくその手だけはとつた。
(僕は、第一印象だけで、彼女に深く想ひをかけてしまつた自分が可笑しく、そして憂鬱であつた。)
 僕は、椅子に腰かけたが絶対に言葉がなく、煙草ばかり喫してゐた。
 兄貴とフロラは絶え間なく会話を続けてゐたが、不図娘は僕を意味して、
「彼は――」と兄貴にたづねた。僕はドキツとしたが、努めて平気さうに己れもまた長閑な会話者であるかのやうな表情を浮べてゐたのであるが――。「彼は何|故《ゆゑ》にあの如く黙つてゐるのか、何か不機嫌な理由でもあるのか?」
「おそらく――」
 と兄貴は人の悪い嗤ひを浮べて云つた。「レデイの美しさに圧倒されてゐるのだらう。彼は、自ら交際下手であることを自慢に感じてゐるといふ風
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