ゾイラス
牧野信一
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)詩《うた》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|安定律の測度器《スタビリテイ・メーター》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから1字下げ]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)働いても/\
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海の遠鳴りをきゝながら私は、手風琴を弾いてゐた。そのダクテイルが、ひらひらと潮の音に逆つて低く高く青白い虚空を衝いて飛んで行くと、私の魂も夢も片々たる白い蝶々と化して、波を乗り越え、宙に翻つて、無何有の沖へ沖へと雪崩れを打つて消えて行つた。
私は、脚を卓子の上に重ねて、椅子の背に頭を載せかけたまゝ「海賊」の詩《うた》をうたつてゐた。
[#ここから1字下げ]
[#ここから横組み]
“…… …… ……
Ours the wild life in tumult still to range
From toil to rest, and joy in every change.”
[#ここで横組み終わり]
[#ここで字下げ終わり]
部屋が舟となつて揺れてゐた。舟は、陸へ向つて打ち寄せる怒濤に逆つて帆を挙げてゐた。ぼろぼろの三角帆であつた。波頭に巻かれて、舟は宙に回転した。帆の、はためきの音が風を切つて雄叫びを挙げてゐた。
私は、自然に対する反逆の言葉を索めつゞけて来た。実にも慌しく日夜が過ぎてゐた、実にも空虚な私の心象の前で――。
「入つても好いの、Ossian? 真つくらぢやないか、灯りをつけたら!」
扉の外で女房の声だつた。
「扉を開けて御覧よ。月あかりの明るさに驚くだらうよ。」
私は、風琴を胸の上に載せて、眼をつむりながら答へた。
「Ossian! ――妾は嫌ひなんだよ、夜だといふのに灯りもついてゐない部屋に、二人の姿を見出すなんていふことは――。そんなぜいたくな夢は――」
彼女の言葉は、口のうちに消えた。
ランプは、油がきれてひとりで消えたのであつた。
「ぢや、妾が納屋へ行つて貰つて来るわ、容器《いれもの》を出してお呉れ。」
その時、私は強ひて灯りを欲しいとは思はなかつたのだが、あんな遠くまで! と気づいたので、慌てゝ、
「欲しければ自分で行つて来るが……」
と、未だしゆんじゆんしてゐた。漁屋の納屋であつた。麦畑の岡の裾を崖ふちに添つて、三つも迂回して、岬の中腹まで辿らなければならぬ道程だつた。
「Ossian!」
と叫んで、彼女は靴の先で扉を力一杯に蹴つた。私は、ぎよつとして椅子から跳びあがつた。私は、書物やら、ネクタイやら、ジヤケツやら――枚挙のいとまはありはしない、何とまあ埃を浴びた数々のがらくたが無暗と散乱してゐる暗くて狭い部屋であることよ!
「憤らないで待つてお呉れよ――今、窓を開けて、直ぐに油の鑵を見つけ出すから、そして独りで行つて来るよ。水車小屋の牡馬《ドリアン》は、もう厩に入つたか何うか、ほんとうに済まないが見て来てお呉れよ。」
私は、サアベルを踏んで飛びあがつたり、真鍮のラツパに躓いてよろめいたりしながら、陰気な窓掛を払ひ除けた。そして、射し込んだ月の光で、寝台の下に転げ込んでゐる油壺を四つん這ひになつて辛うじて探し出した。
街道に降りて見ると、米俵や枯草を積むための二輪車をつけたドリアンの首に凭りかゝつて女房は口笛を吹いてゐる。
「どうせ、もう一度ドリアンは空車で納屋まで行くところだつたの――御者は悦んでお湯へ行つたよ。」
崖下の共同浴場の窓から――草は萌えたち、鳥は歌ひ、蝶は舞ふ、何と長閑な春となつたといふに、何うして俺は斯んなにも物憂気なのだらうか、働いても/\楽にならない貧乏の扇が煽りを止めぬためだらうか、などゝいふ風なくだらぬ意味の歌が、然し、それが歌手自身の真心からの溜息であるかのやうに悠やかな韻律で響き、歌の絶《き》れ目となると、ワツハツハ……といふ笑ひ声が、恰度、合唱のやうに一勢に挙つた。浴場の煙突は、青い夜空に鉛筆のやうにくつきりと伸びて、その合唱をかたどるかのやうな嘲笑的な面もちで煙りを吐いてゐた。
「納屋へ行くよりも一層停車場迄行つて見ようか。」
女房は、月のあかりで時間の見当を定めた後に、
「未だ終列車は着いてゐない筈だわ。」
と云つた。
九郎が、私の「Ossian」と題する作品を携へて東京へ出発してから、もう五日も経つてゐるのだ。日帰りで、九郎は帰らなければならない筈だつた。七郎と八郎が(私も共々)大いに九郎を罵つた後に、村役場の電話を借りて、雑誌社に訊ねて見ると、頤の長い眼のぎよろりとした「九郎」に五日前に金は渡したといふことだつた。
七郎と八郎が、改札口の両端で太い腕を組み肩をいからせて、仁王となつて歩廊の彼方を睨んでゐた。二人は、夕暮時から終列車までの間を毎日此処に現れて腕を組んでゐるのだ。
未だ終列車までは二つも残つてゐる時間であつた。――まばらに人が降りて、九郎の姿は現はれなかつた。二人の者は、無言で私の手をきつく握ると、今にも涙でも滾れさうな眼を堪へて、駅を走り出た。そして露路裏の横町に曲ると、二人は軒を連ねて並んでゐる居酒屋とカフエーに別々に入るのであつた。私は禁酒中だつたから八郎の後を追つて、珈琲店の扉を排した。だが其処の卓子にも酒の用意があつて、然も八郎は飲酒中に、盃をおいて停車場へ赴いたのと見えて、古い盃を再びとりあげるのであつた。コツク場の窓から亭主が顔を突き出すと、八郎の背中を指差しながら私に向つて、九郎さへ帰れば支払ひは即坐だ――といふことばかりを八郎は一日に十辺も繰り返して、盃を重ねてゐるが、斯う九郎の帰りが遅いところを見ると、非常に心配で堪らない旨を告げた。
八郎は、物薄い調子で卓子を叩きながら、七郎のロマンテイシズムなるものが、如何にあやふやなものであるか、といふことに就いて、私の女房をとらへて切りに罵倒してゐる最中で、私と亭主が憂愁に富んだ顔を見合せてゐるのも気づかなかつた。八郎は、プラグマテイストをもつて自らを任じてゐる洋画家である。彼は、あらゆる夢や粉飾を退けて、一元的唯物論の立場から諸々の自然現象を洞察しようとする堅い意志を持つた理論家であつた。私達は悉く、あの崖の中腹の家に起伏して、夫々の創作の道に余念のない芸術家であつたが、七郎と八郎だけが堅く反対の意見を奉ずる異様な熱情家であつて、今では互ひに悪罵をもつて感投詞を投げ合ふ以外には断じて通常の会話は交へぬ程の敵味方となり変つてゐた。事毎に二人は夫々の意見を異にして、絶え間もなく相争ふ有様は恰も古代の火論家水論家が剣の間に舌端の火花を飛せて各自の主張を完うしようとした趣きを髣髴させる概があつた。
たゞ議論として傍聴しようではないか――と叫んで、私達は屡々、あはや格闘にも及びかねまじき彼等の争ひを仲裁するのであつたが、彼等にして見ると、決してそんな議論などといふ生優しい予猶もなく、性格上の根底から相憎み合つてゐる上からは、今や最後の腕力に訴へて捻ぢ倒してしまはなければ医えぬ憤満に満ち溢れてゐるといふのである。
「吾々は歴史的に闘ひつゞけてゐる両流のチヤムピオンであるから、敵の息の根を楯の下に圧し潰すまでは止められぬのだ。」
「多くの場合、二つの性格といふものが……」
私は、極度の困惑のあまりおそる/\呟いたことがあつた。「常に一個の胸の中に於いてさへも相反撥してゐるといふ矛盾に関しては――」
と云ひかけると二人は同時に、
「吾々はそんな矛盾なんて覚えたこともない。」
左う叫んで、見事に胸を裂き示した。且つ、斯る矛盾などといふが如きは、芸術の敵である! と開き直つて、そろつて、今度は私に詰め寄つた。私は、秘かに彼等を稀大なるオプテイミストとして、尊敬し又羨望した。それと同時に私は、斯うまで相反する両様の性格者と、夫々円満らしき交際の出来るかのやうな自身に、突然、恥を覚えて底知れぬ憂鬱の谷に転落した。その頃私は、岬の納屋の三階に通つて、風景と心象の接触点が醸し出す雰囲気の境地に足場を求めて、自己の亡霊を、さながら在り得べき「風景」の森蔭に再生せしむべく精根を枯らしてゐた。
納屋の屋根裏で架空の塔を昇り降りしてゐる自身の亡霊は、稍ともすれば彼等の争ひの声に呼び醒されて、胴震ひを覚えさせられた。私は、その仕事の内容を絶対に彼等に告げなかつた。
私達は、私が吹聴するプラトン流のイデア論の灯火のまはりに集つた共和生活の遊蛾であつたが、そして私も自身を、「灰色の蛾」といふ意味で――おゝ思ひ出しても冷汗が浮ぶ故、その代名詞は再録したくない――何々などと名附けてゐたものであるが、私はランプの蓋《かさ》に凝ツと翅を止めて、
「では、その矛盾なる言葉は取り消させて貰はう、その代り吾々は明日をも待たず今宵のうちに、各自の光りを索めて四方に散るとしようではないか。全く色彩の異るガウンを着けた夫々の友達から、同程度の好意を寄せられるといふことは、終ひには僕が白色になつてしまふといふ結果になるであらう。」
と提言した。
憐れな夢を私は持つた昆虫の如き存在である――と私はその頃、自分を目してゐた。
「灰色の友よ――」
その頃呼び慣れてゐた仇名をもつて、Aが私に答へた。「では、君が今、とりかゝつてゐる作品の脱稿を待つて、各自発足することゝしようではないか。」
「そいつを旅費としよう、四つに分けて――」
AとBの意見が一致したのは、この時一度であつた。
「よからう。」
と、灰色の蛾は触角を微かに震はせながら賛同した。彼は、彼等に向つて、これまで物資に関しては一切共有的観念を持ち合はなければ「自然」に敗北する、吾々がこの田園の中に住家を求めてゐる間は――などといふことを主張してゐたから。
間もなく私は「灰色の蛾」といふ意味の名前に飽きた。――私は、名前を持たなかつた。私は、亡霊であつた。私は、一日も早く愉快な別離を希ひながら、ドリアンを飛ばせて納屋に通つた。
「灰色の蛾――」
と女房も称び慣れてゐた。「早く妾達は都へ行つて、ダンスホールへ通ひたいものだ。」
「あの名前は止めたのだ。許して呉れ。」
「では、これから何と称んだら好いの。未だヒーローの名前が定らないの。」
「……亡霊だ、あゝ!」
と私は溜息をついた。名前が先に決つて、それで称び慣れても私自身も周囲の者もヒヤヒヤしなくなる頃となつて、漸く私はその主人公《ヒーロー》が活躍する一篇の物語が完成するのがそれまでの習慣だつた。
「手前え見度いな碌でなしは死んでしまへ、俺が斯んなに夢中になつて意見をしてゐるのが貴様には聞えないのか。」
つい此間も私は、私の出たらめな生活を譴責に来た律気な叔父に胸を突かれて、果てはぽかりと頭を擲られたにも係はらず、一言置きに彼が「シンイチ! シンイチ!」と呼ぶのが、他人の名前を称んでゐる通りな気がして、さつぱりと痛さも覚えなかつたことがある。
――灰色の夢に、おもむろに「言葉」が降りそゝいで来た。納屋の窓から見渡す風景の輪廓が、一つ宛の枠の中に収まつて、同じものゝ下から、見飽きぬ場面が涌いた。渚で沐浴をする馬、飯場の飲酒家、舟を漕ぐ裸体の影、網に光る魚、遠望の島、鴎の群――それらの一つ一つに私は「自己」を感じた。無何有の夢に達する門を感じた。
……然し私は、はやまつてしまつた。
迷妄と矛盾を持たぬ八郎達の自信の前に私は、自身を見出す毎に、光りに打たれた悪魔となつて絶望の淵に追はれた。自然に対する冒涜を私は感じた。――私は、非常に慌てはじめてゐたその作物を Ossian と題することに決めずには居られなくなつた。「偽詩人」なる意であつた。
ランプを真中にした卓子で一同の者が、夕飯にとりかゝつてゐるところに転げ込んだ私は、
「俺は Ossian だ。」
と告げるや稍暫し昏倒した。
意味を問はれた時には私は、堪へられぬ苦しみであつたが、たゞ、それが当分の俺の名前だ、名前に意味なんてあるも
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