のか――と云ひ張つてしまつた。語源を正さうとする者が現れなかつたのは私は、幸ひとはしたものゝ、以来彼等が口滑り好くそれを私の個有名詞に用ひ出したが、称ばれる度に私は屈辱の稲妻に射られた。私は、決して私を「偽詩人」と目してゐなかつた。私は、私の亡霊を偽詩人なる汚名を冠して追放してしまふほど、憎んでゐなかつた。――それだのに私は、八郎や七郎の敵味方の唯心派と唯物派に、同程度の関心を持つかのやうな己れのとりとめもない心情を軽蔑するに至つた。|安定律の測度器《スタビリテイ・メーター》を破壊した舟が竜巻に呑まれて立往生をしたやうに、私の亡霊は夫々の翼に「夢」と「現実」の風をはらんで吾と吾身が二つに裂けるのではないかと怪まれた。怯堕を鞭打たれた。――それにしても私は、自らそんな仇名をつけてしまつた私は、背後から響く斯る嘲笑の声に打たれて事毎に夢を消され、言葉をさへぎられて、矛盾の真空管に窒息した。
 それでも否応なくそれを脱稿して、春となつてからは、こんな思ひに堪へて見るのも次の仕事の夢の緒口を辿るよすがともなるか――といふやうな呟きの煙りが辛うじて細々と立ち昇るおもむきを感知した。眼をつむつて見ると、何よりも先きにあの崖下の鉱泉浴の煙突だけが厭にくつきりと浮び出るのが私は、憐れで、滑稽であつた。それより他に夢も続かなかつた。ひとりの部屋で、歌をうたつても、剣闘を試みても、たゞ/\在りのまゝの生活は止め度もなく憂鬱であるだけだつた。
「おうい――Mr. Ossian! 月が出ましたよ、時間も迫つた。現実派の陰気な顔なんて見てゐないで、私と一処に停車場へ行かう。一身軽舟トナリ、落日西山ノ側――か、到頭私は居酒屋《サイパン》の親爺に信用を搏してしまつたよ、歩きながらその弁舌を披露しませう。」
 お出で/\――と外から七郎が、常ニ帆影ニ随ヒテ去リ、遠ク長天ノ勢ヒニ接ス――てえんだ! などといふ御気嫌で、大はしやぎであつた。
「面白さうだな……」
 私は、七郎の恰も「長天ノ勢ヒニ接ス」るかのやうな豪快の声に酔つて、よろめき出ようとすると八郎が、鬼のやうな腕で犇と私の肩をとらへた。
「駄目ですぞ。あんな歌に浮されて、彼奴と肩を組んだら、綱の切れた軽気球に乗つたも同然で、奈辺に飛ぶか計り難い――貴兄の尊敬するフアウスタスも云つてゐるぢやありませんか――あんな飲助連中の言葉に乗つたら自業自得の火酒にその身が焼かれるのも忘れるであらう、奴等と来たらわづかばかりの頓智に満足して、恰度小猫が自分の尻尾に弄れるやうに、酒場の亭主に信用のある限り、そして自ら訴へる程の苦痛のない限り、年がら年中堂々回りのお祭り気分で有頂天――」
 それは博士の言葉ではない――「|愛と光りを吹き消す翼《メフイストフエレイス》」の、それこそ「誘惑の科白」なんだよ――と私は気づいたが、訂正する子猶もなく、七郎の声の面白さに亢奮して、八郎を引きずつたまゝ戸外へ滑り出た。
「八郎なんて振り切つてしまひなさい。しかめつ面の唯物論者奴、盗み飲みの道伴れに友達を誘はうとしても駄目だぞ。」
 七郎は片側から私の腕を引つぱりながら、八郎を罵つた。
「云つたな――何方が盗すつとだ。手前えは Ossian の奥方が、俺の歌に惚れて接吻を要求したなどと吹聴したらう、認識不足の放浪者奴、他人のあたり前の好意に飛んだ自惚れ気を起す乞食詩人奴――」
 私の右腕を執つたまゝの八郎は、七郎に向つて脚を挙げた。
「ボロシヤツ一枚で歩いて帰れ――」
 二人の口論が次第に激しくなると、二人は私の腕を左右から根限り引つ張つたまゝ、罵りの言葉の絶れ目毎に脚で闘つた。それが相手までは届かずに、交互に私の臀部にあたつた。そして、抜けさうな両腕の痛さと、蹴られる度に思はず宙に飛びあがつてしまふ私を心棒にして追ひつ追はれつ風車となつて回転した。女房は白々しく鞭を振りながら、つまらなさうに風車の後をついてゐた。創作家なんていふ徒輩は悉く酔つ払ひの神経衰弱者見たいなものだと思つてゐたから、どんな騒ぎが起つても彼女は何時も馬耳東風であつた。皆な気狂ひのやうな自惚れ家だと思ふだけだつた。
 タービンの回転は益々速度を増して私には、八郎と七郎の、そして私自身の区別も判別出来なかつた。凄まじい旋風の中に私は「うぬ!」とか「畜生奴!」とかの唸りと、西瓜のやうに蒼い二個の顔と、そして痛さのために挙げる自分の悲鳴を聴いた。――円い月が幾つにも見えた。あちこちの遠い灯火が金色の雪に見えた。ガードの下で私達は列車の響きを知ると、バラ/\になつて一目散に駈け出した。
 九郎は終列車にも姿を現はさなかつた。
 三つの片々となつた風車は、馬車に積まれると、口をあいて月を仰いでゐた。女房が御者台で、口笛を吹いてゐた。ドリアンの蹄の音が野中の街道に戛々と鳴つてゐた。
 私は胸を手風琴のやうに波打たせながら、やつと息切れが止まると、
「酷え奴だなあ!」
 と唸つた。――「七郎と八郎の喧嘩の言葉を束にして、九郎の顔に投げつけてやつても俺は飽き足りないぞ。」
「あの壮烈な貧棒を目のあたりに眺めてゐながら――」
 と八郎も唸り、七郎も亦、
「奴はデカダンだ。」
 と叫んだ。――この壮烈な貧棒を眺めながら九郎を当にして酒を飲んだりする奴は、ぢや何なの? と御者が皮肉を呟くと、二人は困惑の色を露はにして、八郎は慌てゝ、自分が御者に換らうと申し出たり、七郎は憐れな声で、溜息と涙の遣場を酒にして、とかといふ風な悲歌を吟じた。九郎を罵る私の声がだん/\大きくなつて絶れ目もないのが、次第に二人の者にも痛さを与へたようであつたが、私は遠慮出来なかつた。
「再び出会つても俺はもう九郎とは口を利き度くないぞ――奴の一切が嫌ひになつた。」
 私は、思はず八郎の頭を右手の拳で打ち、七郎の耳を左手で捻つた。そして、馬鹿野郎、馬鹿、馬鹿! と叫んだ。私の声に慣れてゐるドリアンは、急に脚並みを速めた。――常々、八郎の画や七郎の詩よりも、九郎の小説を未だしも認めてゐたのであるが、こんな動機で彼の仕事までが汚れて見えて来るのに、私は驚いた。九郎は一切主張を持たぬ性質で、他の二人から恰度私の立場に似た扱ひを享けてゐる為に、私は別様の親しみを感じてゐたのであつたが、それが反つて私の胸に醜悪な影となつた。私と九郎は手を執り合つて、道伴れを約した事さへあるのだ。それを自分は、こんな機会に、徹底的に罵るなんて、何と自分たる者に恥を覚えぬか、偽、偽、偽! と、われと吾が胸に矢を放つて見るのだが、断然この愚劣な亢奮は収まらぬのだ。
 憎気な九郎の顔だけが、一切の夢を退けて私の眼底にやきついてゐるのみだつた。
 私は翌日から、今度は油を借りて来て自分の部屋で「|罵しる男《ゾイラス》」と題する短篇にとりかゝつた。 Zoilas――には、既日私は転身することが出来た、称号に慣れるまでの暇も要ともせずに、忽ち、Ossian を振り棄てた。私は、書き誌すそばから、同人連に向つて朗読した。
 Zoilas(B.C. 400−305)あゝ、あの厭生派の修辞学徒は稀代の長命者だ。彼は、その一生をホメロスの罵倒に傾注した、その名前が「罵しる男」なる抽象名詞として通用されるに至つた程彼は憎みとほした、ホメロスの詩を――。彼は、ホメロスに対する弾劾論を強調する目的で各国語の凡ゆる形容詞を八部の著書に取り纏め七冊の修辞々典を著はし、五冊の書に厭世哲学を述べて、遠くシヨウペンハウエルに迄影響の翼を垂れた。
 私の「ゾイラス」は、三日三晩の不眠不休の揚句、一気呵勢に完成された。
「はつきりと現実を把握した。君の一面に斯る境地を見出すことは稀有の悦びだ。」
 八郎は私を抱きあげて、部屋の中をぐるぐると回つた。そして早速都へ走つて、金に換へて来ることを約した。「ゾイラス」の作者は、発熱の床で、新しい使者を見送つた。その日まで着てゐたたつた一着の私の背広を八郎が着て、妻の外套で旅費を工面をした。彼女が、若し八郎の帰宅がおくれると「ゾイラス」は壁飾りのインヂアン・ガウンを着て外出するより他はなくなるであらう――と嗤ふと、彼は憤つた表情で、
「私は九郎ぢやない――気紛れといふ性質を知らぬ唯物論者だ。」
 と腕を振つて出発した。そして、翌日の夕暮時の汽車を約した。――翌晩、終列車まで待つた七郎と女房が、私の枕元に空しく立つてゐた。
「散歩へ行かう。」
 私は二人を促して外へ出た。私は、胸にいさゝかの憤りの影も射さぬのが、寧ろ不可解であつた。おそらく私が恵まれた凡ゆる罵りや憤懣の修辞句は悉く「ゾイラス」一篇の中に注ぎ尽してしまつたゝめの、結果であらう――と想像された。
 更に間もなく七郎が亦、決行した遁走のいきさつに関しては私は、最早記述する興味も覚えぬのである。
 私は、多くの「罵しる人」達=債権者達に包囲されて、籠の中の木兎と化してゐた。私はそれらの人々の罵倒の語彙の中に新奇なる修辞句はなからうか? と秘かに吟味したが、単に私が稀代の不道徳漢であることを形容して、恰度私が九郎を罵つたと同じやうに、「何とも言語同断な酷い奴」であり「盗棒よりも図々しい輩」であり「口を利くのも御免だ」と、誰も彼もが同じやうなことを喚いて絶交の宣言を繰り返した。その中には嘗ては私と共々に生涯の親交を誓つて高く盃を挙げ合つた銀行家が居た。私の人格を信じて生涯の道伴れを約した地主が居た。牧場主が居た。私に収入のあつた場合にその五分の一を納入するのみで、吾家の食堂に酒樽を備へつゞけるであらうと主張した酒造家が居た。七郎や八郎が酒場の亭主に弁解した如く私も亦彼等に対して「九郎が帰つたならば――」といふことを約して、数々の負債を重ねたのだ。「八郎が帰るまで――」「七郎が……」
 夜――私は、女房の腕をとつて崖下の街道に逃れ出た。振り返つて見あげると、皎々と灯りのついた部屋/\の窓が、一勢に外に向つて開け拡げられて、多くのゾイラス共の影が縦横に行き交うてゐた。転宅の模様でゞもあるかのやうに、種々な荷物を担いだシルエツトが中央の窓の蔭に寄り集まつた。ひとりの男が急造への壇の上に昇つて、卓子を前にした。その周囲に人々が円陣をつくつた。それらの影がはつきりと映り出て、やがて口々に何事かを叫び、拳を振りあげたり、踊りあがるやうな恰好を示したりした。――私は、私の弾劾演説が初まるのだらう! と思つて、女房の手を執つたまゝ、ぼんやり見あげてゐると、壇上の男が不図執りあげたものに気づくと、それは私の剣闘練習用の錆びたサアベルであつた。男は、滑稽な見得を切つて稚拙にそれを頭上に振つた。哄笑の声が起つた。男は頻と口に何事かを叫びながらサアベルを振つてゐたが、間もなく疳癪の発作に駆られた身振りで、窓外にそれを投げ棄てた。サアベルは私の脚もとに滑り落ちた。
 男は、次に二人がかりで重いトランクを持ちあげた。演説でもなささうだ、魔術の練習かしら、不思議な人達だ――と私と女房は首をかしげたが、懸物が現はれたり、花瓶が運ばれたりして、それが周囲の人達の手に渡されてゐるのを見てゐるうちに、漸く私が、
「オークシヨンだよ。」
 と気づいた。
「あゝ、あの首飾りは、妾、欲しい――何う云つたら好いの?」
 女房は私に取り縋つて、声を震はせた。――私は、いきなり窓に向つて、
「そいつも偽物だぞ!」
 と大喝した。
 男は、窓の下にあつたテラスに、買手のない物品を一先づ投げ出してゐたのであるが、石垣の修繕作業のために、とり脱けられてあつたので、彼が投げ出す品々は悉く私達のゐる崖下に転落してゐた。非常に亢奮して表門から圧し寄せた彼等は、暗い裏側の出来事に気づいてゐなかつた。だから私達は、さつきから種々な品物を首尾よく享けとつてゐた。私は、一つ一つ投げ出されて来たアメリカ土人の|鳥かぶと《モンクス・フード》を頭上に戴き、トーテム模様を織り出した草織のガウンを着て、腰にはサアベルを吊りさげ、朱塗りのカラス面をかむつてゐた。そして女房は、夜目にもあざやかな白地に|トラムペツト・フラワー《のうぜんかづら》の縫取りを施した
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