は、彼等に向つて、これまで物資に関しては一切共有的観念を持ち合はなければ「自然」に敗北する、吾々がこの田園の中に住家を求めてゐる間は――などといふことを主張してゐたから。
間もなく私は「灰色の蛾」といふ意味の名前に飽きた。――私は、名前を持たなかつた。私は、亡霊であつた。私は、一日も早く愉快な別離を希ひながら、ドリアンを飛ばせて納屋に通つた。
「灰色の蛾――」
と女房も称び慣れてゐた。「早く妾達は都へ行つて、ダンスホールへ通ひたいものだ。」
「あの名前は止めたのだ。許して呉れ。」
「では、これから何と称んだら好いの。未だヒーローの名前が定らないの。」
「……亡霊だ、あゝ!」
と私は溜息をついた。名前が先に決つて、それで称び慣れても私自身も周囲の者もヒヤヒヤしなくなる頃となつて、漸く私はその主人公《ヒーロー》が活躍する一篇の物語が完成するのがそれまでの習慣だつた。
「手前え見度いな碌でなしは死んでしまへ、俺が斯んなに夢中になつて意見をしてゐるのが貴様には聞えないのか。」
つい此間も私は、私の出たらめな生活を譴責に来た律気な叔父に胸を突かれて、果てはぽかりと頭を擲られたにも係はらず、一言置きに彼が「シンイチ! シンイチ!」と呼ぶのが、他人の名前を称んでゐる通りな気がして、さつぱりと痛さも覚えなかつたことがある。
――灰色の夢に、おもむろに「言葉」が降りそゝいで来た。納屋の窓から見渡す風景の輪廓が、一つ宛の枠の中に収まつて、同じものゝ下から、見飽きぬ場面が涌いた。渚で沐浴をする馬、飯場の飲酒家、舟を漕ぐ裸体の影、網に光る魚、遠望の島、鴎の群――それらの一つ一つに私は「自己」を感じた。無何有の夢に達する門を感じた。
……然し私は、はやまつてしまつた。
迷妄と矛盾を持たぬ八郎達の自信の前に私は、自身を見出す毎に、光りに打たれた悪魔となつて絶望の淵に追はれた。自然に対する冒涜を私は感じた。――私は、非常に慌てはじめてゐたその作物を Ossian と題することに決めずには居られなくなつた。「偽詩人」なる意であつた。
ランプを真中にした卓子で一同の者が、夕飯にとりかゝつてゐるところに転げ込んだ私は、
「俺は Ossian だ。」
と告げるや稍暫し昏倒した。
意味を問はれた時には私は、堪へられぬ苦しみであつたが、たゞ、それが当分の俺の名前だ、名前に意味なんてあるものか――と云ひ張つてしまつた。語源を正さうとする者が現れなかつたのは私は、幸ひとはしたものゝ、以来彼等が口滑り好くそれを私の個有名詞に用ひ出したが、称ばれる度に私は屈辱の稲妻に射られた。私は、決して私を「偽詩人」と目してゐなかつた。私は、私の亡霊を偽詩人なる汚名を冠して追放してしまふほど、憎んでゐなかつた。――それだのに私は、八郎や七郎の敵味方の唯心派と唯物派に、同程度の関心を持つかのやうな己れのとりとめもない心情を軽蔑するに至つた。|安定律の測度器《スタビリテイ・メーター》を破壊した舟が竜巻に呑まれて立往生をしたやうに、私の亡霊は夫々の翼に「夢」と「現実」の風をはらんで吾と吾身が二つに裂けるのではないかと怪まれた。怯堕を鞭打たれた。――それにしても私は、自らそんな仇名をつけてしまつた私は、背後から響く斯る嘲笑の声に打たれて事毎に夢を消され、言葉をさへぎられて、矛盾の真空管に窒息した。
それでも否応なくそれを脱稿して、春となつてからは、こんな思ひに堪へて見るのも次の仕事の夢の緒口を辿るよすがともなるか――といふやうな呟きの煙りが辛うじて細々と立ち昇るおもむきを感知した。眼をつむつて見ると、何よりも先きにあの崖下の鉱泉浴の煙突だけが厭にくつきりと浮び出るのが私は、憐れで、滑稽であつた。それより他に夢も続かなかつた。ひとりの部屋で、歌をうたつても、剣闘を試みても、たゞ/\在りのまゝの生活は止め度もなく憂鬱であるだけだつた。
「おうい――Mr. Ossian! 月が出ましたよ、時間も迫つた。現実派の陰気な顔なんて見てゐないで、私と一処に停車場へ行かう。一身軽舟トナリ、落日西山ノ側――か、到頭私は居酒屋《サイパン》の親爺に信用を搏してしまつたよ、歩きながらその弁舌を披露しませう。」
お出で/\――と外から七郎が、常ニ帆影ニ随ヒテ去リ、遠ク長天ノ勢ヒニ接ス――てえんだ! などといふ御気嫌で、大はしやぎであつた。
「面白さうだな……」
私は、七郎の恰も「長天ノ勢ヒニ接ス」るかのやうな豪快の声に酔つて、よろめき出ようとすると八郎が、鬼のやうな腕で犇と私の肩をとらへた。
「駄目ですぞ。あんな歌に浮されて、彼奴と肩を組んだら、綱の切れた軽気球に乗つたも同然で、奈辺に飛ぶか計り難い――貴兄の尊敬するフアウスタスも云つてゐるぢやありませんか――あんな飲助連中の言葉に乗つたら自業自得
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