み肩をいからせて、仁王となつて歩廊の彼方を睨んでゐた。二人は、夕暮時から終列車までの間を毎日此処に現れて腕を組んでゐるのだ。
 未だ終列車までは二つも残つてゐる時間であつた。――まばらに人が降りて、九郎の姿は現はれなかつた。二人の者は、無言で私の手をきつく握ると、今にも涙でも滾れさうな眼を堪へて、駅を走り出た。そして露路裏の横町に曲ると、二人は軒を連ねて並んでゐる居酒屋とカフエーに別々に入るのであつた。私は禁酒中だつたから八郎の後を追つて、珈琲店の扉を排した。だが其処の卓子にも酒の用意があつて、然も八郎は飲酒中に、盃をおいて停車場へ赴いたのと見えて、古い盃を再びとりあげるのであつた。コツク場の窓から亭主が顔を突き出すと、八郎の背中を指差しながら私に向つて、九郎さへ帰れば支払ひは即坐だ――といふことばかりを八郎は一日に十辺も繰り返して、盃を重ねてゐるが、斯う九郎の帰りが遅いところを見ると、非常に心配で堪らない旨を告げた。
 八郎は、物薄い調子で卓子を叩きながら、七郎のロマンテイシズムなるものが、如何にあやふやなものであるか、といふことに就いて、私の女房をとらへて切りに罵倒してゐる最中で、私と亭主が憂愁に富んだ顔を見合せてゐるのも気づかなかつた。八郎は、プラグマテイストをもつて自らを任じてゐる洋画家である。彼は、あらゆる夢や粉飾を退けて、一元的唯物論の立場から諸々の自然現象を洞察しようとする堅い意志を持つた理論家であつた。私達は悉く、あの崖の中腹の家に起伏して、夫々の創作の道に余念のない芸術家であつたが、七郎と八郎だけが堅く反対の意見を奉ずる異様な熱情家であつて、今では互ひに悪罵をもつて感投詞を投げ合ふ以外には断じて通常の会話は交へぬ程の敵味方となり変つてゐた。事毎に二人は夫々の意見を異にして、絶え間もなく相争ふ有様は恰も古代の火論家水論家が剣の間に舌端の火花を飛せて各自の主張を完うしようとした趣きを髣髴させる概があつた。
 たゞ議論として傍聴しようではないか――と叫んで、私達は屡々、あはや格闘にも及びかねまじき彼等の争ひを仲裁するのであつたが、彼等にして見ると、決してそんな議論などといふ生優しい予猶もなく、性格上の根底から相憎み合つてゐる上からは、今や最後の腕力に訴へて捻ぢ倒してしまはなければ医えぬ憤満に満ち溢れてゐるといふのである。
「吾々は歴史的に闘ひつゞけてゐる両流のチヤムピオンであるから、敵の息の根を楯の下に圧し潰すまでは止められぬのだ。」
「多くの場合、二つの性格といふものが……」
 私は、極度の困惑のあまりおそる/\呟いたことがあつた。「常に一個の胸の中に於いてさへも相反撥してゐるといふ矛盾に関しては――」
 と云ひかけると二人は同時に、
「吾々はそんな矛盾なんて覚えたこともない。」
 左う叫んで、見事に胸を裂き示した。且つ、斯る矛盾などといふが如きは、芸術の敵である! と開き直つて、そろつて、今度は私に詰め寄つた。私は、秘かに彼等を稀大なるオプテイミストとして、尊敬し又羨望した。それと同時に私は、斯うまで相反する両様の性格者と、夫々円満らしき交際の出来るかのやうな自身に、突然、恥を覚えて底知れぬ憂鬱の谷に転落した。その頃私は、岬の納屋の三階に通つて、風景と心象の接触点が醸し出す雰囲気の境地に足場を求めて、自己の亡霊を、さながら在り得べき「風景」の森蔭に再生せしむべく精根を枯らしてゐた。
 納屋の屋根裏で架空の塔を昇り降りしてゐる自身の亡霊は、稍ともすれば彼等の争ひの声に呼び醒されて、胴震ひを覚えさせられた。私は、その仕事の内容を絶対に彼等に告げなかつた。
 私達は、私が吹聴するプラトン流のイデア論の灯火のまはりに集つた共和生活の遊蛾であつたが、そして私も自身を、「灰色の蛾」といふ意味で――おゝ思ひ出しても冷汗が浮ぶ故、その代名詞は再録したくない――何々などと名附けてゐたものであるが、私はランプの蓋《かさ》に凝ツと翅を止めて、
「では、その矛盾なる言葉は取り消させて貰はう、その代り吾々は明日をも待たず今宵のうちに、各自の光りを索めて四方に散るとしようではないか。全く色彩の異るガウンを着けた夫々の友達から、同程度の好意を寄せられるといふことは、終ひには僕が白色になつてしまふといふ結果になるであらう。」
 と提言した。
 憐れな夢を私は持つた昆虫の如き存在である――と私はその頃、自分を目してゐた。
「灰色の友よ――」
 その頃呼び慣れてゐた仇名をもつて、Aが私に答へた。「では、君が今、とりかゝつてゐる作品の脱稿を待つて、各自発足することゝしようではないか。」
「そいつを旅費としよう、四つに分けて――」
 AとBの意見が一致したのは、この時一度であつた。
「よからう。」
 と、灰色の蛾は触角を微かに震はせながら賛同した。彼
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