が好い、跛を引いて振り落としてやっても構わないさ。」
 私は小気味好さを覚えながらゼーロンに向ってそんな耳打ちをした。
 ところが僅《わず》か二里ばかりの堤を溯った頃になると、ゼーロンの跛は次第に露骨の度を増して稍々《やや》ともすると危く私に私の舌を噛ませようとしたり、転落を怖れる私をその鬣《たてがみ》に獅噛《しが》みつかせたりするというような怖ろしい状態になって来た。そして道端の青草を見出すと、乗手の存在も忘れて草を喰《は》み、どんなに私が苛立《いらだ》っても素知らぬ風を示すに至った。
 私は、訝《いぶか》しく首を傾け悲しみに溢《あふ》れた喉を振り搾《しぼ》って、
「ゼーロン!」と叫んだ。「お前は僕を忘れたのか。一年前の春……河畔の猫柳の芽がふくらみ、あの村境いの――」
 私は一羽の鳶が螺旋を描きながら舞いあがっている遥《はる》かの鎮守の森の傍《かたわ》らに眺められる黒い門の家を指差して、同じ方角にゼーロンの首を持ちあげて、
「強欲者《ごうよくもの》の屋敷では桃の花が盛りであった頃に、お前に送られて都に登ったピエル・フォンの吟遊詩人《ジャグラア》だよ。」と顔と顔とを改めて突き合せなが
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