」「円卓の館《やかた》」その他の名称の下に、芸術の道に精進する最も貧しい友達のために寄宿舎として与えられることになっていた。私は久しい間「イデアの楯」の食客となって藤屋氏の訓育をうけたストア派の吟遊作家であり、この胸像はその間に同じく「P・R・B」の彫刻家である経川が二年もの間私をモデルにして作ったのである。私が経川のモデルになると決った時には、近隣の村民達は悉《ことごと》く貧しい経川のために癇癪《かんしゃく》の舌打ちをしてなぜもっと別様の「馬」とか「牛」とか、さようなものを題材に選ばぬのだろうと、その無口な彫刻家のために同情を惜まなかった。なぜならば経川のかような作品ならば、即座に莫大な価格をもって売約を申込む希望者が群がっていたからである。人物を選むならば、なぜ村長や地主をモデルにしなかったのだろう。村長の像ならば村費をもって記念像を作る議が可決されているし、地主ならば彼自らが自らの人徳を後世の村民に遺《のこ》すための象《しるし》として、費用を惜まず己《おの》れの像を建設して置きたい望みを洩らしている。またこの地に縁故の深い坂田金時や二宮金次郎の像ならば、神社や学校で恭々《うやうや
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