来から記録に残された僅少の名前のみである。それにはこの森を深夜に独《ひと》りで踏み越えた豪胆者として坂田金時や新羅《しんら》三郎の名前が数えられて、今なおその記録を破る冒険者は出現しないと流言されている。通例は森を避けて、猪鼻から、岡見、御岳《みたけ》、飛龍山、唐松《からまつ》、猿山などという部落づたいに龍巻村へ向うのが順当なのであるが、私は既に塚田村で遠回りをしたばかりでなく驢馬事件のために思わぬ道草を喰ってしまった後であるから是非ともこの森を踏み越えなければ途中で日暮に出遇う怖れがあるのだ。縦令《たとい》記録に残って彼等勇敢なる武士《つわもの》と肩を竝べる誉《ほまれ》があろうとも、私は夜行には絶対に自信は皆無である。思っただけで身の毛がよだつ――。私は嘗《かつ》て徒党を組んでこの森を横断した経験があるから昼間の道には自信はあるが、がむしゃらに奥へ奥へと踏み込んで滝のある崖側《がけがわ》に突き当ると、今度は急に馬鹿馬鹿しく明るい、だが起伏の夥《おびただ》しい芝草に覆われた野原に出る筈だ。暗鬱な森を息を殺してここに至った時には思わずほっとして皆々手を執り合って顔を見合わせたことを覚えて
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