R漁場と都の酒場で
牧野信一

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)秣《まぐさ》

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(例)のたり/\[#「のたり/\」に傍点]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)待つて呉れ/\
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     一

 停車場へ小包を出しに行き、私は帰りを、裏山へ向ふ野良路をたどり、待ち構へてゐた者のやうにふところから「シノン物語」といふ作者不明の絵本をとり出すと、それらの壮烈な戦争絵を見て吾を忘れ、誰はゞかることも要らぬ大きな声を張りあげて朗読しながら歩いてゐた。歩く――と云つても朗読の方へ大方の注意を込めてゐたから、一間すゝむと其処に五分間も立ちどまつて、神妙に首をひねつたり、また、思はず胸先に拳を擬し、何時までゝも空を仰いだまゝ、恰も琴の音に仰いで秣《まぐさ》喰《は》む馬のやうに恍惚として、口をあけてゐたりするのであつたから――この「歩いてゐた!」には、形容詞や副詞に余程誇張した言葉を選ばなければならないのであるが、私は「私」を「彼」とでも書き変へぬ限り、その亢奮状態を客観視しなければならぬ時になつて見ると、私自身にさへ不自然を感ずる位ひであるから、ほんとうはその亢奮状態を仔細に写すべきが必要なのであるが、止むを得ず省略せずには居られない。何故なら、そんな亢奮状態といふものは、得て客観者にとつて意味なき滑稽感を強ひるではないか? ましてや、私自身が、自身の、あまりに生真面目なあまりに終に滑稽化された己れの姿を、回想し、再び眼の前に踊り現すなどといふ残酷な業が堪へ得るであらうか! たゞ一途なる情熱家である自分自身に、あはれみ以外のものを感じたくない――のは人情であらうよ。
 それはそれとして、あゝ私は、常に、何といふ哀れな情熱家であることよ!
「シノン! シノン! シノン!」
 私は、彼の兵士の名前を声を限りに呼びあげてゐた。呼べば応へがある――かのやうに私は夢を忘れ、時を忘れ、忽ち作中の人物等と共に同じ空気を呼吸してしまふのが病ひであつた。――だから私は、滅多に本を読まぬことに努めてゐたのであるが、愛する子供のために東京に注文しておいた騎士物語の一部が駅留便で着いたので、さて、これを、何んな風に面白気に翻訳して、読み聞かせてやらうか? と思つて、早速歩きながら封を切つて、下験べをはじめて見ると忽ち自分自身が囚はれの身になつてしまひ、思はず力んで剣を振る、眼を据ゑて不思議な唸り声を挙げる……何うにも仕方がなくなつたので私は、慌てゝ道を変へて人通りの無い、裏山へ向ふ野良路に走つたのである。
「今度の本も亦戦争かい、小父さん?」
「ちよつと絵だけを先に見せてお呉れよ。」
「やあ! 大きな馬だな、腹の真ン中に窓があいてゐるぜ、兵隊が入つてゐるな。」
 常々私の朗読のファンである学校通ひの小学生が、口々に呼びながら私の両腕にもたれかゝつて来たのであるが私は、
「待つて呉れ/\、今度のは大分翻訳が六ヶしさうだ、余ツ程丹念に辞書を引いて、はつきりと、とりまとめて置かなければ話は出来さうもないよ。待つて呉れ、晩までかゝつて何うにかまとまつたら、いつものやうに納屋《ナイヤ》のサイレンを鳴すから、そしたら皆な集つて来いよ――」
 と辛うじて弁明して、野良路へ逃げ込んだのである。
「シノン!」
 と私は呼んだ。「僕等の納屋生活なんて、恰度君の木馬の腹の中の、決死の一夜にも似てゐるではないか!」
 シノンといふのは、云ひおくれたが、斯の有名なるトロヤ戦争の殊勲者である。一兵卒のシノンが何うして、不意に、あの木馬の計謀を発明したか? シノン等は決死隊を組織して、木馬の腹の中で、何んな夜々を送つたか? シノンは木馬の腹の扉を、極度に細く、そつと開くと、折からの一条の月光が箭のやうな光りを送り、その光りで見ると同志の顔は何んな輝やかしさに充ちてゐたか、その時何日目で同志の顔に接したか、何んな祈りを彼等はあげたか、木馬が出発する前の晩にシノンは故郷の恋人と母親に何んな手紙を書きおくつたか――。
 何《ど》の一頁を瞥見しても私は、夥しく強く胸を打たれて息詰つた。そして私は、絵本を胸におしあてたまゝ、馬頭観音の祠の前に来かゝると、思はず其処に膝まづいて深い黙祷に沈んだ。賽銭をあげ、鈴を振り鳴し、言葉なく合掌した。

     二

 そして私の迷信的気分は忽ち爽やかに晴れ渡つてゐた。私は、断然書物を閉ぢて、ふところに収めると、
「あゝ、カルデャの牧人が――」
 と、和やかな朝の空を仰いで、星の歌をうたひながら歩いてゐた。キャベツ畑の上を白い蝶々が舞ひ廻り、猫やなぎなどが伸びてゐる小流れの向ひ側の堤を、牛車がごろ/\といふ音をたてゝ通つてゐた。
 すると牛車の男が、私に向つて手をあげて、
「納屋に帰りますか?」
 と呼びかけた。納屋といふのは、魚場の従業員の合宿所の謂である。――私は別段それに答へようともせずに、大きな、間の抜けた声を挙げて、
「お早う、G――、凄い働き振りぢやないか! 昨夜は、あれから真ツすぐに帰つたと見えるね。」
 などと問ひ返した。牛車の御者は納屋の従業員でゞもあるG――と呼ぶ親孝行で評判の若者であつた。
 この頃来る日も/\、風であつたり、雨が続いたり、晴れたかと思へば潮流が定まらなかつたりしてゐるので網をあげてからもう十日あまりも経つのであつたが、未だに一向潮模様が収まらなかつた。納屋の広場には網の塁が築かれ、浮標に使ふ貝殻のついた四斗樽が幾十となく其処に転がつてゐた。そして、多くの従業員達の――賢者は野良へ戻つて田を耕し、馬鹿は町の廓へ通ひ詰め、飲酒者は居酒屋で夜を更し、孝行者は父母の許へ帰宅して森や林へ薪を拾ひに行つてゐる――といふことになつて、納屋に完全に居続けてゐるのは気象係りのHと呼ぶ農学士と、そして其処の参観者とも食客ともつかぬ立場の私達夫妻だけであつた。だが、Hも二日ばかり前の晩に、性急な舌打ちを繰り返しながら、掲揚旗とサイレンとに関する配慮だけを私達に任せて置いて、隣県の妻の許へ帰つて行つた。
「何うして?」
「午から納屋の連中が、マメイドの二階に寄り合ふんです。」
 村にたゞ一軒の居酒屋である。
「それは、また何うして?」
「何うして……ツて! 何とかして網が入れられるやうな相談をしなければならないぢやありませんか、斯う毎日々々私達は陸で、居候を続けてゐるんぢや全く何うも情けないぢやありませんかね……」
 漁業を――「一枚の板子の下は地獄である」と称してゐる海の仕事を天命の職と心得てゐる彼等は、田や畑の仕事にたづさはつてゐる境涯を、居候! と云つて、丁度屯所の天幕の中で戦ひの来るのを待つて腕をこまねいてゐる兵士等と同じやうに、花々しく猛り狂ふ夢をおさへてゐるのであつた。
「寄り合ひ――をね……」
 と云つて私は、眼を細くしてぼんやりと空を見あげた。好く晴れ渡つた朗らかな晩春の空である。斯んなに麗らかな空でありながら、何うして海ばかりがそんなに荒れつゞけてゐるのだらう。いや、その海だつて、この丘のあたりから遥かに見降すと全く紺碧に澄み渡つてゐて、何処に何んな風波が渦巻き、何処に何んな悪潮が流れ込んでゐるのか決して想像もつきはしない、不思議に綺麗な海洋である。遥か彼方の水平線の上を細い煙りをたてゝ、進んでゐるらしい汽船が一つ、たゞ後ろに悠やかになびいてゐる煙りの具合だけで、走つてゐることが解るどこまでも長閑気な、のたり/\[#「のたり/\」に傍点]の春の海原ではないか。
 ――だが、再び、何んなに私達が多くの思慮深い額をあつめて、事を謀らうが、長夜の寄合ひを続けようが、相手が深淵極りなき大海原であり、大ネプチューンの支配下である限り――嗚呼! 私達は、如何なる議を廻らし、何んな寄り合ひを開かうとするのか、嗚呼、蟷螂の斧とも喩へられぬではないか……だが、吾等は、事を謀らずには居られぬ、円陣をつくつて長夜の議会を開かずには居られぬ、それが空しき業と解つてゐればゐるだけ、炎ゆる血の止め度なき竜巻の、天に沖する気焔を挙げずには居られなかつたのである。――で彼等は、稍ともすれば納屋の櫓に集つたり、居酒屋の二階に寄り集つたりして、「事を議す」――「論を提出する」――「賛成する」――「反対する」――果は、罵り合ひ、つかみ合ひ、「仲裁」――「和議」――「仲直り」――「乾盃」……そんなことでも繰り返さずして、何うして、計り知れざるネプチューンの御気嫌を、おめ/\と待つてゐられるものではないのである。
 私は、自分が作家である故に斯んな説明詞を付け加へるが、恰もそれは、私達が一つの作に取りかゝるであらう前の、理窟や、情実や、知識や、哲学では何うすることも出来ないきらびやかな烈風との戦ひ、捉へどころを知らぬ無限の寂莫、涯しなき虚空へ向つての反抗、そして、止め度もなき寂しさを抱いて、さ迷ひ廻り、はしやぎ廻り、偉さうな議論を喋舌り廻り、恥も知らず、誉れもなく、たゞ、ひたすらに命かぎりの祈りを挙げる、「あの蟷螂の斧」「あの嘆きの寄り合ひ」――あの芸術至上感と、何んな隔てもない情景であつた。
「ぢや僕は、このまゝ出かけて行つても関ひませんよ。」
「いゝえ、若し納屋へ帰つてHさんがゐたら、Hさんを誘つて来て貰ひたいと思つて……」
「オーライ――」
 私は、何か気分が颯爽と翻るのを覚えて返事するやいなや、すた/\と歩き出してゐた。――流れが迂回する角まで来ると、其処の水門にせかれた水が、さん/\といふ音をたてゝ滝になつてゐるのに気づき、不図振り返つて見ると、Gは未だ牛車を止めて此方に向つて、わけもなく帽子を振つてゐた。
 春で――皆な感傷的になつてゐるな! などゝ思つて、私はドンと一つ自分の胸を打ち、
「好い天気だね――G君!」
 と突調子もない大きな声をおくつた。

     三

 次に私は、
「気分でも悪いのですか?」
 と優しい声に呼ばれた。
「あツ、清子さんか?」
「斯んな真ツ直ぐな道を、両方から歩いてくるのに、あなたツてば、突き当らなければ気がつかないんですもの!」
 漁場主の娘である。――「何を考へながら歩いていらつしやるの?」
「いゝえ、陽がまぶしいからさ……」
「あたしもね、あし音をわざとたてないやうに、そうツと歩いて来たのよ。何時まで気がつかないだらうツか――と思つて?」
「そうツと歩かなくつたつて、こんなやはらかな草の上を、加《おま》けにそんな草履で歩いて来られゝば解りつこないさ。」
「だから危いことよ、真ツ直ぐ前を見て来なければ――。ワツ! と驚かしてゞもあげれば好かつたわね。」
「冗談ぢやない。」
「あたし今迄納屋で、あなたを待つてゐたのよ。何か本を借りたいと思つて……」
「何もなかつたでせう。」
「探したりなんてしやしませんわ。」
「――。Hさん居た?」
「いゝえ――誰も……。――そしてね、もう一つ聞きたいことがあるの? あなた、何時頃東京へいらつしやるの?」
「漁期中は此処で働いてゐるつもりなんだけれど……」
「寄り合ひばかりで厭になつた?」
「別段――」
 と私はかぶりを振つた。何時東京へ行くか? と問はれると、私は都会生活が慕はしくなつて来て、ほんとうに、あんな「寄り合ひ」ばかりが続いてゐる漁場に、就中殆んど役立ずに居ることも顧慮され、一層直ぐにでも引きあげてしまはうか知ら? などゝ思ひ出してゐたが、それきり清子はそれに就いては訊ねもしないので、黙つてゐると、
「若し、当分此方にゐるのなら、あたしもこれから納屋に入りたいのよ、気象課に――。行くのなら、あたしも東京へ一緒に行きたいの――」
「…………」
 私は答へる言葉を知らなかつた。斯んな類ひの真面目な質問に出遭ふと私は、変に事大的に考へ過ぎて唖になるのが癖だつた。……が、直ぐに娘は軽やかに話頭を転じてゐた。私が小脇にしてゐる三冊ばかりの書物を指差して、
「取り寄せたばかりのでは悪いけれど、その中にあたしに適当なのあるかしら?」
 と云つた。彼女は
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