何時も私の言葉を強ひて、それに依つて次々に読書するのが習ひであつた。
「これは、何うも――」
 と私は、書物を示して、笑ひ顔をせずには居られなかつた。
「生憎く今日のは、何れも皆な昔も昔も、大昔の――お伽噺ばかりさ。村の幼い友達のために仕入れたのであるが、何うも僕は此頃、僕自身斯ういふ類ひのものゝ方に、読んで豊かな情熱を感じられるといふ風な傾向でもあるんだよ。」
「昔のでも好いのよ、此間貰つた――マルシァス河の悲歌のやうなものなら。」
「これは、トロヤ戦争余聞、シノン物語――これは、クリステンダムの七勇士――そして、この綺麗な本は、フェニキァの海賊物語……」
「ぢや、またにして戴くわ。――あたしね、何でも関はないから、滅茶苦茶に悲しい文章を読みたいのよ――何故かと云ふとね、何だかあたしは、この頃いろ/\と身の廻りに起つて来る当然悲しさを感じなければならないやうな事件に出遇つても、さつぱり悲しくもなんともなくつて、反つて、何だか可笑しくなつて来るのよ、それが何だか女の癖に図々しい見たいな、無神経みたいな風に思はれて、焦れツたくなつたりするのよ。――それで、……と思つて、此間、マルシァス河を丹念に読んだら、悲しくなつたので、ほんとうに安心したわ。――ほんとうの悲しいこと――とか、或ひは、その反対のことなどゝいふものは、この現世に在るものではなくつて、人の想像の中にだけ在るのぢやないかしら――」
「……さて、それは何ういふものかね?」
「厭あよ、上の空で聞いてゐては……」
「決して上の空ぢやないよ。――何うして吾々の世界に、芸術の世界に、悲劇や喜劇が生ずるに至つたかといふ歴史を回想すれば自づとそれは自明になつて来る問題ぢやなからうかね。その古い/\歴史を遡るには、こんな春の陽《ひかり》を浴びながらでは、呼べば直ちに応へる――といふ風には、何事も返答出来なからうぢやないか。」
 二人は、斯んな問答をとり交しながら、腕をとり合つたまま小川に添うて歩みを運んでゐた。
「やあ! Gさんの牛車も堤の向方側で、此方と平行に進んでゐるぜ。」
 私は、また片手を挙げて、
「おーい、Gーさん、H君は納屋に居ないツてさ。だから僕は、この儘納屋には帰らないよ。」
 と言葉を送つた。
「さうやつて、二人が歩いてゐるところを、此方から見ると、まるで恋人同志が春の野原を散歩してゐる見たいだア!」
 とGは車を止めて、掌をメガホンにして呼ばつたりした。
「たゞに生物の問題のみでなく、森羅万象の姿に於て――その表面の和やかさが直ちにその全容を語るものではないのだね。月夜の庭に引き出されたトロヤの木馬の腹の中に、決死隊の一群が潜んでゐたかのやうに――嵐は何処にでも潜んでゐる――悲しむべきことだつて、様々な仮面をかむつて、其処にも此処にも幾らだつて転つてゐる筈だよ――清ちやん!」
 私は重々しく自信あり気な口調で、そんなことを唸り、今更のやうに娘の首を傾げさせたりした。
「納屋の人達の遣場のない鬱憤を思つたつて、忽ち僕は息苦しいペーソスに打たれるよ。斯んな時に一人の悪人でもが現れたら僕等の鬱憤は忽ち其処に向つて集中し、見る間に退治してしまふだらうがな。」
「N村の作次見たいな人、悪人かしら?」
「人の軽蔑感を誘ふものは、それ自体悪である――といふのは古来のギリシャ思想にあるが作次の行為なんて軽蔑に価するね、未だ鬱憤を向けるべき緒口が現れぬから彼自身無事であるが――」
「あたし幸福だつたのね。……あの儘だつたら作次と結婚したかも知れなかつたのね。」
「結婚したかも知れない? だつて! 馬鹿な――。呑気なこと云つてやがら……」
「だつて、あの時、あのまゝなら仕方がないぢやないの?」
「煩いな。……早く帰つて、マルシァス河の悲歌でも朗読した方が好いのぢやないのかね――その驚くべき呑気な心境を、悲しみをもつて充すために――」
「御免なさい。もう、その話しないわ。」
 娘の父親が漁場主であつたが、失敗を重ねて破産したので、R漁場は近々新しい主権者を迎へる筈だつた。村で、たつた一人だけ、東京の大学を出たといふ理由で、隣りのN村では青年会の団長などを務め、いろ/\と威張つてゐる作次の一族が、その候補者にならうといふ運動があつたが、はじめからそれには納屋の連中がをさまらぬのであつた。作次といふ男は、自分のN村では謹厳さうな態度を保つて稍ともすれば訓話会などを開いて、修身の道を講ずる程の勢ひでありながら、一度自分の村を遠ざかると、若い身空でありながら町の金融界に出没して巧みに詐欺を働いたり、婦女を欺すかの如き業を寧ろ得々としてゐるかの如き輩であつたから、何んなに彼が得意さうに、俺の家は近郷近在での分限家であるぞ、俺の家は斯んな大きな金庫があるぞ、財産は幾万だ――などゝいふやうなことをマメイドなどに現れて高言してゐるのを聞いても私は、聞えぬ振りを示し、一切の会話を取り交さぬのが慣ひであつた。――その作次が、私の可憐な、小さな友達である清子に結婚を申し込んでゐたといふ話を私は、ついこの頃清子の口から聞いたのである、盛んな申込みを続けてゐたが、清子の家が破産をしたといふことが公になつたら、それきり何とも云はぬやうになつた――といふ結末と一処に――。
「でもね、はじめ、うちのお父さんは、あの男は仲々真面目さうな男ぢやないか……なんて云つてゐたのよ。」
「そんなら何うして、はじめそんな話を聞いた時に直ぐと僕に云はなかつたのさ。」
「……さつき、あんなことを云つて御免なさい。あたし勿論、結婚なんてする意志はありはしないわよ。意地悪だつたのよ、あたしの方が――」
「さつき、君が云つた――あの時若しもあのまゝだつたら――といふのは、何んな風だつたの?」
「あの人の、あの頃の熱情振り! ――だけど、あれが嘘だつたとすると、あの芝居振り――はちよつと尊敬出来るやうだわ。」
「そんなに凄まじかつたの!」
 私は、その詳細の説明を聞きたかつたので、何んなことを云つた? 何んな手紙を寄したの? 道で出遇ふと何んな様子をした? ――などゝ矢つぎ早な質問を提出して、腕を執つたまゝ娘の顔を改めて覗き込んだ。私は、さういふ場合に男が女に云ひ寄る物腰態度に就いて、深い好奇心が動いたのである。
 ――と、前の方を凝つと眺めてゐた清子が、不図指先きをあげて、
「あれ作次ぢやない? 彼処に立つてゐるの――。そら/\、あんな仰山な手真似なんてして何か話してゐるぢやないの――」
「さうだ、彼奴だ!」
 と私は、思はず敵の姿でも発見した者のやうに声を忍ばせて立ちどまつた。――二人の女が堤の草原に腰を降して、釣糸を垂してゐる。その傍らで、一人の男が、様々なジェスチュアをもつて何事かを物語つてゐる。
「あの釣りをしてゐる女は、僕の細君とマメイドのメイ子だよ。」
 と私が云ひ終るのも待たずに清子は、矢庭に声を張りあげて、
「奥さん――」
 と叫んだ。澄明な音声が、春霞みの中を走つて行くのが窺はれるかのやうな、小川とその三個の点景人物と、そして麦畑だけの広い、平らな風景であつた。
 その声で、彼方の人物は一勢に此方を振り返つた。――そして、メイ子と細君は立ちあがつて、夫々の魚籠を提灯のやうに頭の上に振りあげた。――そして、振り降した時分になつて、声が伝つて来た。
「釣れたわよ――」
「早くいらつしやい……」
 ――それと同時に彼女等の背後になつてゐる男は、此方が誰であるか? といふのを認めて、たしかに、ハツ! と気拙さを覚えたらしく、ぎこちなく肩をそびやかしたかと思ふと忽ち後ろを向いて、反対の方角へ、すたこらと歩き出した様子を、私達は発見した。
「逃げてしまふわ、あたし、彼の人に直接に会つて云はなければ困ることがあるのだけれど――呼び返して頂戴よ。」
 と清子が私にさゝやいた。――で、私は、あらん限りの声を振り絞つて、
「待て――ツ!」「待て――ツ!」
 と三度も叫んだ。
 が、聞えぬ風に彼の姿はその儘次第に遠のいて行く。聞えぬ筈はないのだ、婦人達がたつた今あれほど明らかに言葉を交し合つてゐるではないか――その上私は、それを叫ぶためには、思はず其処に立ちどまつて、両脇腹をおさへて、声の続く限り、上半身が伏して直角に曲るまでに叫んだのであるから、おそらく婦人達の声の倍の高さに違ひないのだ、たとへ、澄まぬ濁音であらうとも――。
「あたしの友達として、あなたは彼の人を敵視しても関はないわ、それには充分な理由があるんですもの。遠慮なんて要らないことよ……」
 更に、そんなことを清子がさゝやいたので私は、よしツ、失敬な男だ! と呟き、明らかな喧嘩腰となり、
「馬鹿野郎!」――「意久地なし!」――「女蕩し!」
 などゝ続けざまに物凄い挑戦の言葉を叫んだ。
 すると、さすがに向方も癪に触つたと見えて、ちよつと振り返るや、拳を空に突き示した。
 私は、宙に飛んで、拳を振り示し、なほも、猛烈な挑戦の言葉を叫んだが、相手の姿は見る間に麦畑の中に消へてしまつた。黒い頭が、ひよい/\と浮き沈んで行つたが、忽ちそれも影をひそめてしまつた。
「残念だな!」
 と私は、行手を凝つと睨めながら唸つた。「たつた一言でも好いから、誰かゞ聞いてゐるところで、云つてやりたいことがあるのよ、あの慾深男に――」
「ね、今ね、彼の人つたらね……」
 と私の細君は私の手と清子の手を同時に取りあげて、
「この二人がね、恋を語りながら今、向方の堤の蔭を歩いてゐるから、皆なで、そつと廻り道をして、後をつけてつてやらうぢやないか――なんて、あたし達を誘ふのよ。」
 と、悲し気な表情を露はにして苦笑ひした。
「それで、お前は何んな心地がしたの?」
 と私も憂ひ顔をして、憐れな細君を胸近く引き寄せて訊ねずには居られなかつた。
「何云つてんのよ、馬鹿ツ!」
 細君は私の胸を払ひのけて、その代りに清子を引き寄せて、
「お前は何んな心地がしたの? だつて!」
 などゝ私の口真似をして、肚をかゝへた。
「ほんとうにね――変に真面目さうな顔になつたりして……」
 などゝ清子も続けて笑つた。
 私は、酷くてれ[#「てれ」に傍点]て頭を掻きながら、にはかに空々しくメイ子と細君の魚籠を覗き込んで、
「獲れた/\! 此処ばかりは大漁だ、両方合すと五尾もあるぞ――納屋に帰つて、午飯としよう/\!」
 と、わざとへうきんな口調ではしやいだ。

     四

 納屋の三階にある展望室は、三方が硝子張であつたが、漁場が休んで以来帷を引きまはして沈黙を保つてゐた。尤も、この室は私自身が、プライベェトに借り、私が勝手に展望室と名づけてゐるのであつたから、漁場の休みにも営業にも関はりのあるわけではなかつたが、私の春愁の夢が恰も四囲に暗緑の深い帷を降して、幻想の昼寝に閉ぢ込るにふさはしい日々なのであつた。
 部屋の真ン中の大卓子の上には、漁場の忙しかつた時分に矢つ張り私も共々にシャツの腕まくりをして、誰に頼まれたわけでもないのに大汗をしぼつて模写などをした幾枚かの海洋図が散乱したり、作りかけの星座表が投げ出してあり、床には、つい此間まで有り難さうに部屋隅の書棚に飾り立てゝあつた古典ギリシャの芸術、科学、哲学に関する種々様々な書物が、くづれた煉瓦のやうに投げ棄てられ、三脚の上の望遠鏡は、直角に、古ぼけた天井を指差し、覆ひの布が被せられて有つた。
 私は、暗い片隅の固いベツドに横たはつて、ぼんやりと薄眼をあいてゐた。もう、とうに夜になつてゐたにも関はらず、私はランプを点さう――ともしなかつた。
 私は、時々カーテンの合せ目を細く開いて感慨深気な眼《まなこ》を傾げて、ひとり悦に入つてゐるかのやうな有様であつた。――「シノン物語」に、うつゝを抜かしはじめて以来私にとつて一つの新しい心癖が生じてゐた。私は、この展望室にゐる時は云ふまでもなく、細君と共に食卓を囲んでも、納屋の連中と共に会議に列席しても、村の酒飲連とマメイドで乾盃してゐる時でも――たゞ、其処が室内でさへあれば、それが木馬の腹の中のやうに、はつきりと、そのやうに
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