した。そして急に性急な調子に立ち返つて、
「誰だ/\! その結婚の申込者といふのは僕の知つてゐる男か。そんな素晴しい申込みを決行して、若しもメイ子が承諾したならば、そいつは天下の幸福者だぞ、一体それは何処の伊達者《ダンデイ》だ?」――などゝ息をはずませた。私が、此頃一寸でも物事に亢奮すると決つて、その口調が科白のやうになる! と云つて、細君とメイ子は慣れぬ周囲のために苦笑を浮べたが、細君は更に私の耳に、そつと、だが颯爽たる力の籠つたかすれ声で、
「それが作次さんなんですつてさ!」
 と囁いた。
「馬鹿野郎!」
 と私は思はず叫んで、ドンと卓子を叩いた。――「ふざけるな! ……馬鹿にするな……大馬鹿奴!」
 細君とメイ子は困惑して酒場から逃げ出した。私は、悪漢のやうに二人の女の後を追つて、階段を昇つた。
「厭だわ、あんなところで、あんな大きな憤り声なんて出して! 見つともなくて凝つとしてゐられやしない。……屋上まで、段々を昇つて行きませう……八階あるから……Count ten! その間には、その怒りの発作が鎮まるだらう。」
 寂とした鉄の階段で、私の頭上を昇つて行く婦人の靴の音が、慌たゞしくカン/\とあたりに綺麗に響き渡りながら、細君かメイか私には判別もつかなかつたが、それらの言葉が途切れ/\に伝つた。
「何といふことだ!」
「だから、メイちやんが、それに困つて、相談に来たんぢやないのよ。」
「相談もくそもあるものか――待つて呉れ、苦しい、俺の手を引ツ張れ!」
 私は、よろめいて窓に凭り、
「これは何階だ?」
 と訊ねた。
「三階!」
(これ位ひ大きな木馬があつたら愉快だらうな。)……私は、斯んな激情の頂点で、不図そんな空想に走り、窓から外に顔を出した自身を可笑しく思つた。
 メイが悲しさうに云つた。――「うちの父さんが、あの人のお父さんにお金を沢山借りてゐるんだつて!」
「何云つてやがるんだい。それが何うしたと云ふんだい?」
 私は、怒鳴つて、立どまつた。
「四階よ……そして、うちの店は何時の間にかあの人のうちの……」
「待つて呉れ!」
 私は窓から大空に向つて太い息を衝いた。そして、これが巨大な木馬の腹の中での騒ぎであるやうに想像して、義憤の血に炎えた。
「エレベイターに乗らう。」
「此方の方が好いわ。――そしてうちの父さんに向つて……」
「あの男は、そんなことを君に向つて露骨に云ふのか?」
「吾家《うち》は、それほどの金持だから、僕と結婚すれば幸福になるよ――といふやうな意味で……」
「嘘をつけ! それにしても、何とまあ厭な野郎なんだらう。」
「五階――ほうら、もう五階よ。」
「……それぢや、まるで新派悲劇の芝居のやうぢやないか! ――ほんとうに、あんな芝居のやうな出来事なんて云ふものが、公然と、ある[#「ある」に傍点]のかな! でも、まさか、芝居のやうに――娘を呉れなければ、金の借を何うするなんていふほどではあるまいね?」
「いゝえ、それも芝居の通りなの……」
「よしツ! 俺が今夜にでも一緒に帰つてやらう、そんなべら棒な話になんて驚されてゐて堪るものか! ――喧嘩だ。」
 と私は、思はず堅い拳固を鋭く眼の前に突き出した。――そして、側らの窓から顔を空中に曝して、ハーツと熱い息を吐き出し、暫く眼を瞑つて頭を冷さうとした。が、何うしても疳癪の虫は収まりさうもないのである。……馬を飛せて、あの卑劣な男の館へ飛び込む、彼奴の眉間を目がけて猛烈な拳固が飛ぶ、乱闘――そんな光景ばかりが、パラ/\と目眩しくフラッシュするだけであつた。
「七階よ――もう一つでせう。」
「夢も理屈もない――たゞ、この憤激の血潮……。真に芝居のやうだ。」
「何、云つてるの、ひとりで? ――あツ、八階ぢやないの――」
「おゝ、綺麗だ、街の灯! ――早く、いらつしやいよ。」
 細君とメイ子が口をそろへて賞讚し、一歩おくれて階段を昇つて来る私をせきたてた。
「デパートでは、近頃女のエレベイター係りを使つてゐるんですつてね?」
「えゝ、さうよ。」
「あたし応募して見ようかしら?」
 ……何うしても俺はメイを送つて今夜にでもR村へ行かずには居られない――などゝ呟きながら凝つと夜空を眺めてゐた私の耳に、二人のそんな会話の一片が聞えた。



底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房
   2002(平成14)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「経済往来 第五巻第八号」日本評論社
   1930(昭和5)年8月1日発行
初出:「経済往来 第五巻第八号」日本評論社
   1930(昭和5)年8月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年1月17日作成
青空文庫作成ファイル:
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