止めて此方に向つて、わけもなく帽子を振つてゐた。
春で――皆な感傷的になつてゐるな! などゝ思つて、私はドンと一つ自分の胸を打ち、
「好い天気だね――G君!」
と突調子もない大きな声をおくつた。
三
次に私は、
「気分でも悪いのですか?」
と優しい声に呼ばれた。
「あツ、清子さんか?」
「斯んな真ツ直ぐな道を、両方から歩いてくるのに、あなたツてば、突き当らなければ気がつかないんですもの!」
漁場主の娘である。――「何を考へながら歩いていらつしやるの?」
「いゝえ、陽がまぶしいからさ……」
「あたしもね、あし音をわざとたてないやうに、そうツと歩いて来たのよ。何時まで気がつかないだらうツか――と思つて?」
「そうツと歩かなくつたつて、こんなやはらかな草の上を、加《おま》けにそんな草履で歩いて来られゝば解りつこないさ。」
「だから危いことよ、真ツ直ぐ前を見て来なければ――。ワツ! と驚かしてゞもあげれば好かつたわね。」
「冗談ぢやない。」
「あたし今迄納屋で、あなたを待つてゐたのよ。何か本を借りたいと思つて……」
「何もなかつたでせう。」
「探したりなんてしやしませんわ。」
「――。Hさん居た?」
「いゝえ――誰も……。――そしてね、もう一つ聞きたいことがあるの? あなた、何時頃東京へいらつしやるの?」
「漁期中は此処で働いてゐるつもりなんだけれど……」
「寄り合ひばかりで厭になつた?」
「別段――」
と私はかぶりを振つた。何時東京へ行くか? と問はれると、私は都会生活が慕はしくなつて来て、ほんとうに、あんな「寄り合ひ」ばかりが続いてゐる漁場に、就中殆んど役立ずに居ることも顧慮され、一層直ぐにでも引きあげてしまはうか知ら? などゝ思ひ出してゐたが、それきり清子はそれに就いては訊ねもしないので、黙つてゐると、
「若し、当分此方にゐるのなら、あたしもこれから納屋に入りたいのよ、気象課に――。行くのなら、あたしも東京へ一緒に行きたいの――」
「…………」
私は答へる言葉を知らなかつた。斯んな類ひの真面目な質問に出遭ふと私は、変に事大的に考へ過ぎて唖になるのが癖だつた。……が、直ぐに娘は軽やかに話頭を転じてゐた。私が小脇にしてゐる三冊ばかりの書物を指差して、
「取り寄せたばかりのでは悪いけれど、その中にあたしに適当なのあるかしら?」
と云つた。彼女は何時も私の言葉を強ひて、それに依つて次々に読書するのが習ひであつた。
「これは、何うも――」
と私は、書物を示して、笑ひ顔をせずには居られなかつた。
「生憎く今日のは、何れも皆な昔も昔も、大昔の――お伽噺ばかりさ。村の幼い友達のために仕入れたのであるが、何うも僕は此頃、僕自身斯ういふ類ひのものゝ方に、読んで豊かな情熱を感じられるといふ風な傾向でもあるんだよ。」
「昔のでも好いのよ、此間貰つた――マルシァス河の悲歌のやうなものなら。」
「これは、トロヤ戦争余聞、シノン物語――これは、クリステンダムの七勇士――そして、この綺麗な本は、フェニキァの海賊物語……」
「ぢや、またにして戴くわ。――あたしね、何でも関はないから、滅茶苦茶に悲しい文章を読みたいのよ――何故かと云ふとね、何だかあたしは、この頃いろ/\と身の廻りに起つて来る当然悲しさを感じなければならないやうな事件に出遇つても、さつぱり悲しくもなんともなくつて、反つて、何だか可笑しくなつて来るのよ、それが何だか女の癖に図々しい見たいな、無神経みたいな風に思はれて、焦れツたくなつたりするのよ。――それで、……と思つて、此間、マルシァス河を丹念に読んだら、悲しくなつたので、ほんとうに安心したわ。――ほんとうの悲しいこと――とか、或ひは、その反対のことなどゝいふものは、この現世に在るものではなくつて、人の想像の中にだけ在るのぢやないかしら――」
「……さて、それは何ういふものかね?」
「厭あよ、上の空で聞いてゐては……」
「決して上の空ぢやないよ。――何うして吾々の世界に、芸術の世界に、悲劇や喜劇が生ずるに至つたかといふ歴史を回想すれば自づとそれは自明になつて来る問題ぢやなからうかね。その古い/\歴史を遡るには、こんな春の陽《ひかり》を浴びながらでは、呼べば直ちに応へる――といふ風には、何事も返答出来なからうぢやないか。」
二人は、斯んな問答をとり交しながら、腕をとり合つたまま小川に添うて歩みを運んでゐた。
「やあ! Gさんの牛車も堤の向方側で、此方と平行に進んでゐるぜ。」
私は、また片手を挙げて、
「おーい、Gーさん、H君は納屋に居ないツてさ。だから僕は、この儘納屋には帰らないよ。」
と言葉を送つた。
「さうやつて、二人が歩いてゐるところを、此方から見ると、まるで恋人同志が春の野原を散歩してゐる見たいだア!」
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