とGは車を止めて、掌をメガホンにして呼ばつたりした。
「たゞに生物の問題のみでなく、森羅万象の姿に於て――その表面の和やかさが直ちにその全容を語るものではないのだね。月夜の庭に引き出されたトロヤの木馬の腹の中に、決死隊の一群が潜んでゐたかのやうに――嵐は何処にでも潜んでゐる――悲しむべきことだつて、様々な仮面をかむつて、其処にも此処にも幾らだつて転つてゐる筈だよ――清ちやん!」
 私は重々しく自信あり気な口調で、そんなことを唸り、今更のやうに娘の首を傾げさせたりした。
「納屋の人達の遣場のない鬱憤を思つたつて、忽ち僕は息苦しいペーソスに打たれるよ。斯んな時に一人の悪人でもが現れたら僕等の鬱憤は忽ち其処に向つて集中し、見る間に退治してしまふだらうがな。」
「N村の作次見たいな人、悪人かしら?」
「人の軽蔑感を誘ふものは、それ自体悪である――といふのは古来のギリシャ思想にあるが作次の行為なんて軽蔑に価するね、未だ鬱憤を向けるべき緒口が現れぬから彼自身無事であるが――」
「あたし幸福だつたのね。……あの儘だつたら作次と結婚したかも知れなかつたのね。」
「結婚したかも知れない? だつて! 馬鹿な――。呑気なこと云つてやがら……」
「だつて、あの時、あのまゝなら仕方がないぢやないの?」
「煩いな。……早く帰つて、マルシァス河の悲歌でも朗読した方が好いのぢやないのかね――その驚くべき呑気な心境を、悲しみをもつて充すために――」
「御免なさい。もう、その話しないわ。」
 娘の父親が漁場主であつたが、失敗を重ねて破産したので、R漁場は近々新しい主権者を迎へる筈だつた。村で、たつた一人だけ、東京の大学を出たといふ理由で、隣りのN村では青年会の団長などを務め、いろ/\と威張つてゐる作次の一族が、その候補者にならうといふ運動があつたが、はじめからそれには納屋の連中がをさまらぬのであつた。作次といふ男は、自分のN村では謹厳さうな態度を保つて稍ともすれば訓話会などを開いて、修身の道を講ずる程の勢ひでありながら、一度自分の村を遠ざかると、若い身空でありながら町の金融界に出没して巧みに詐欺を働いたり、婦女を欺すかの如き業を寧ろ得々としてゐるかの如き輩であつたから、何んなに彼が得意さうに、俺の家は近郷近在での分限家であるぞ、俺の家は斯んな大きな金庫があるぞ、財産は幾万だ――などゝいふやうなことをマメイドなどに現れて高言してゐるのを聞いても私は、聞えぬ振りを示し、一切の会話を取り交さぬのが慣ひであつた。――その作次が、私の可憐な、小さな友達である清子に結婚を申し込んでゐたといふ話を私は、ついこの頃清子の口から聞いたのである、盛んな申込みを続けてゐたが、清子の家が破産をしたといふことが公になつたら、それきり何とも云はぬやうになつた――といふ結末と一処に――。
「でもね、はじめ、うちのお父さんは、あの男は仲々真面目さうな男ぢやないか……なんて云つてゐたのよ。」
「そんなら何うして、はじめそんな話を聞いた時に直ぐと僕に云はなかつたのさ。」
「……さつき、あんなことを云つて御免なさい。あたし勿論、結婚なんてする意志はありはしないわよ。意地悪だつたのよ、あたしの方が――」
「さつき、君が云つた――あの時若しもあのまゝだつたら――といふのは、何んな風だつたの?」
「あの人の、あの頃の熱情振り! ――だけど、あれが嘘だつたとすると、あの芝居振り――はちよつと尊敬出来るやうだわ。」
「そんなに凄まじかつたの!」
 私は、その詳細の説明を聞きたかつたので、何んなことを云つた? 何んな手紙を寄したの? 道で出遇ふと何んな様子をした? ――などゝ矢つぎ早な質問を提出して、腕を執つたまゝ娘の顔を改めて覗き込んだ。私は、さういふ場合に男が女に云ひ寄る物腰態度に就いて、深い好奇心が動いたのである。
 ――と、前の方を凝つと眺めてゐた清子が、不図指先きをあげて、
「あれ作次ぢやない? 彼処に立つてゐるの――。そら/\、あんな仰山な手真似なんてして何か話してゐるぢやないの――」
「さうだ、彼奴だ!」
 と私は、思はず敵の姿でも発見した者のやうに声を忍ばせて立ちどまつた。――二人の女が堤の草原に腰を降して、釣糸を垂してゐる。その傍らで、一人の男が、様々なジェスチュアをもつて何事かを物語つてゐる。
「あの釣りをしてゐる女は、僕の細君とマメイドのメイ子だよ。」
 と私が云ひ終るのも待たずに清子は、矢庭に声を張りあげて、
「奥さん――」
 と叫んだ。澄明な音声が、春霞みの中を走つて行くのが窺はれるかのやうな、小川とその三個の点景人物と、そして麦畑だけの広い、平らな風景であつた。
 その声で、彼方の人物は一勢に此方を振り返つた。――そして、メイ子と細君は立ちあがつて、夫々の魚籠を提灯のやうに頭の上に振
前へ 次へ
全9ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング