と云ひ残して出て行つた。注意して見るとそれは私が村を出て来る時にメイの家に残して来たフェンシング・スォウルドだつた。村にゐる間私は、運動と称し、稍ともすれば是を振り廻してゐた。
 私はメイ子の親切気と、そして現在の下宿の四畳半とを思つて、困つた顔で、その箱を取りあげ、鉄砲のやうに担いで外に出た。
 間もなくメイ子は、白いベレイを斜めにかむり、白い踵の高い靴でコツ/\といふ音をたてながら細君に伴れられて私が待つてゐる酒場に現れた。
 Yに、私はメイ子を紹介した。
「タイプライターなら、あたしも打てるんですけれど、二人は使つて戴けないでせうか?」
 メイ子は突然Yに訊ねた。メイだつて清子だつて、同程度にタイピストとしての資格はある。彼女等はR漁場の私の展望室で充分な練習をしてゐたから――。
「だつてメイは!」
 と私は思はず口を出した。――「メイは自分の家で働かなければならないのは解りきつてゐるのに?」
「それがね、さつきメイちやんから聞いて驚いてしまつたんだけれど……」
「云つては、厭――何だか……」
 とメイ子は赤い顔をして横を向いた。――「屋上に伴れてつて……景色が見たいわ、あんな高い処から見たら――まるでRの展望台から海を見るやうぢやないかしら……」
「綺麗だよ。ぢや行つて見よう。――そして、Yの方だが、此方は何うも一人のタイピストでも要るか、要らないか――といふところで、清ちやんのためには他を訊ねて貰はうと思つてゐるのだ。」
「ぢや、あたしのも他を聞いて……」
「ほんとうに、そんな決心なの?」
 私は腑に落ちぬ心地で問ひ返してゐると、傍らから再び細君が口添へした、低く私の耳に囁いた。
「ね、結婚の申込が、日増にさかんになつて、家にゐられないんですつて!」
「結婚なら当然ぢやないか、何も家に居られないなんて……」
 私は応揚に打消しながら、今更のやうにぼんやりメイ子の姿を見直して見たりした。――つい此間までは、あんな芝居を行つたり、また、マメイドで酒に酔ふと娘を引き寄せて「体は離れても魂は離れはせぬよ、マーガレットの口唇が――」といふファウストの科白の一個所を、マメイドと呼び代へて、
「マメイドの口唇が神体に触れても嫉ましいわい。」
 などゝ唸つて酒場の常連の前で愉快な戯れに吾を忘れたりしたが、もうあんな真似は出来さうもない――不図そんな馬鹿な思ひに走つたりした。そして急に性急な調子に立ち返つて、
「誰だ/\! その結婚の申込者といふのは僕の知つてゐる男か。そんな素晴しい申込みを決行して、若しもメイ子が承諾したならば、そいつは天下の幸福者だぞ、一体それは何処の伊達者《ダンデイ》だ?」――などゝ息をはずませた。私が、此頃一寸でも物事に亢奮すると決つて、その口調が科白のやうになる! と云つて、細君とメイ子は慣れぬ周囲のために苦笑を浮べたが、細君は更に私の耳に、そつと、だが颯爽たる力の籠つたかすれ声で、
「それが作次さんなんですつてさ!」
 と囁いた。
「馬鹿野郎!」
 と私は思はず叫んで、ドンと卓子を叩いた。――「ふざけるな! ……馬鹿にするな……大馬鹿奴!」
 細君とメイ子は困惑して酒場から逃げ出した。私は、悪漢のやうに二人の女の後を追つて、階段を昇つた。
「厭だわ、あんなところで、あんな大きな憤り声なんて出して! 見つともなくて凝つとしてゐられやしない。……屋上まで、段々を昇つて行きませう……八階あるから……Count ten! その間には、その怒りの発作が鎮まるだらう。」
 寂とした鉄の階段で、私の頭上を昇つて行く婦人の靴の音が、慌たゞしくカン/\とあたりに綺麗に響き渡りながら、細君かメイか私には判別もつかなかつたが、それらの言葉が途切れ/\に伝つた。
「何といふことだ!」
「だから、メイちやんが、それに困つて、相談に来たんぢやないのよ。」
「相談もくそもあるものか――待つて呉れ、苦しい、俺の手を引ツ張れ!」
 私は、よろめいて窓に凭り、
「これは何階だ?」
 と訊ねた。
「三階!」
(これ位ひ大きな木馬があつたら愉快だらうな。)……私は、斯んな激情の頂点で、不図そんな空想に走り、窓から外に顔を出した自身を可笑しく思つた。
 メイが悲しさうに云つた。――「うちの父さんが、あの人のお父さんにお金を沢山借りてゐるんだつて!」
「何云つてやがるんだい。それが何うしたと云ふんだい?」
 私は、怒鳴つて、立どまつた。
「四階よ……そして、うちの店は何時の間にかあの人のうちの……」
「待つて呉れ!」
 私は窓から大空に向つて太い息を衝いた。そして、これが巨大な木馬の腹の中での騒ぎであるやうに想像して、義憤の血に炎えた。
「エレベイターに乗らう。」
「此方の方が好いわ。――そしてうちの父さんに向つて……」
「あの男は、そんなことを
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