君に向つて露骨に云ふのか?」
「吾家《うち》は、それほどの金持だから、僕と結婚すれば幸福になるよ――といふやうな意味で……」
「嘘をつけ! それにしても、何とまあ厭な野郎なんだらう。」
「五階――ほうら、もう五階よ。」
「……それぢや、まるで新派悲劇の芝居のやうぢやないか! ――ほんとうに、あんな芝居のやうな出来事なんて云ふものが、公然と、ある[#「ある」に傍点]のかな! でも、まさか、芝居のやうに――娘を呉れなければ、金の借を何うするなんていふほどではあるまいね?」
「いゝえ、それも芝居の通りなの……」
「よしツ! 俺が今夜にでも一緒に帰つてやらう、そんなべら棒な話になんて驚されてゐて堪るものか! ――喧嘩だ。」
と私は、思はず堅い拳固を鋭く眼の前に突き出した。――そして、側らの窓から顔を空中に曝して、ハーツと熱い息を吐き出し、暫く眼を瞑つて頭を冷さうとした。が、何うしても疳癪の虫は収まりさうもないのである。……馬を飛せて、あの卑劣な男の館へ飛び込む、彼奴の眉間を目がけて猛烈な拳固が飛ぶ、乱闘――そんな光景ばかりが、パラ/\と目眩しくフラッシュするだけであつた。
「七階よ――もう一つでせう。」
「夢も理屈もない――たゞ、この憤激の血潮……。真に芝居のやうだ。」
「何、云つてるの、ひとりで? ――あツ、八階ぢやないの――」
「おゝ、綺麗だ、街の灯! ――早く、いらつしやいよ。」
細君とメイ子が口をそろへて賞讚し、一歩おくれて階段を昇つて来る私をせきたてた。
「デパートでは、近頃女のエレベイター係りを使つてゐるんですつてね?」
「えゝ、さうよ。」
「あたし応募して見ようかしら?」
……何うしても俺はメイを送つて今夜にでもR村へ行かずには居られない――などゝ呟きながら凝つと夜空を眺めてゐた私の耳に、二人のそんな会話の一片が聞えた。
底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房
2002(平成14)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「経済往来 第五巻第八号」日本評論社
1930(昭和5)年8月1日発行
初出:「経済往来 第五巻第八号」日本評論社
1930(昭和5)年8月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年1月17日作成
青空文庫作成ファイル:
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