りあげた。――そして、振り降した時分になつて、声が伝つて来た。
「釣れたわよ――」
「早くいらつしやい……」
 ――それと同時に彼女等の背後になつてゐる男は、此方が誰であるか? といふのを認めて、たしかに、ハツ! と気拙さを覚えたらしく、ぎこちなく肩をそびやかしたかと思ふと忽ち後ろを向いて、反対の方角へ、すたこらと歩き出した様子を、私達は発見した。
「逃げてしまふわ、あたし、彼の人に直接に会つて云はなければ困ることがあるのだけれど――呼び返して頂戴よ。」
 と清子が私にさゝやいた。――で、私は、あらん限りの声を振り絞つて、
「待て――ツ!」「待て――ツ!」
 と三度も叫んだ。
 が、聞えぬ風に彼の姿はその儘次第に遠のいて行く。聞えぬ筈はないのだ、婦人達がたつた今あれほど明らかに言葉を交し合つてゐるではないか――その上私は、それを叫ぶためには、思はず其処に立ちどまつて、両脇腹をおさへて、声の続く限り、上半身が伏して直角に曲るまでに叫んだのであるから、おそらく婦人達の声の倍の高さに違ひないのだ、たとへ、澄まぬ濁音であらうとも――。
「あたしの友達として、あなたは彼の人を敵視しても関はないわ、それには充分な理由があるんですもの。遠慮なんて要らないことよ……」
 更に、そんなことを清子がさゝやいたので私は、よしツ、失敬な男だ! と呟き、明らかな喧嘩腰となり、
「馬鹿野郎!」――「意久地なし!」――「女蕩し!」
 などゝ続けざまに物凄い挑戦の言葉を叫んだ。
 すると、さすがに向方も癪に触つたと見えて、ちよつと振り返るや、拳を空に突き示した。
 私は、宙に飛んで、拳を振り示し、なほも、猛烈な挑戦の言葉を叫んだが、相手の姿は見る間に麦畑の中に消へてしまつた。黒い頭が、ひよい/\と浮き沈んで行つたが、忽ちそれも影をひそめてしまつた。
「残念だな!」
 と私は、行手を凝つと睨めながら唸つた。「たつた一言でも好いから、誰かゞ聞いてゐるところで、云つてやりたいことがあるのよ、あの慾深男に――」
「ね、今ね、彼の人つたらね……」
 と私の細君は私の手と清子の手を同時に取りあげて、
「この二人がね、恋を語りながら今、向方の堤の蔭を歩いてゐるから、皆なで、そつと廻り道をして、後をつけてつてやらうぢやないか――なんて、あたし達を誘ふのよ。」
 と、悲し気な表情を露はにして苦笑ひした。
「それで、
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