お前は何んな心地がしたの?」
 と私も憂ひ顔をして、憐れな細君を胸近く引き寄せて訊ねずには居られなかつた。
「何云つてんのよ、馬鹿ツ!」
 細君は私の胸を払ひのけて、その代りに清子を引き寄せて、
「お前は何んな心地がしたの? だつて!」
 などゝ私の口真似をして、肚をかゝへた。
「ほんとうにね――変に真面目さうな顔になつたりして……」
 などゝ清子も続けて笑つた。
 私は、酷くてれ[#「てれ」に傍点]て頭を掻きながら、にはかに空々しくメイ子と細君の魚籠を覗き込んで、
「獲れた/\! 此処ばかりは大漁だ、両方合すと五尾もあるぞ――納屋に帰つて、午飯としよう/\!」
 と、わざとへうきんな口調ではしやいだ。

     四

 納屋の三階にある展望室は、三方が硝子張であつたが、漁場が休んで以来帷を引きまはして沈黙を保つてゐた。尤も、この室は私自身が、プライベェトに借り、私が勝手に展望室と名づけてゐるのであつたから、漁場の休みにも営業にも関はりのあるわけではなかつたが、私の春愁の夢が恰も四囲に暗緑の深い帷を降して、幻想の昼寝に閉ぢ込るにふさはしい日々なのであつた。
 部屋の真ン中の大卓子の上には、漁場の忙しかつた時分に矢つ張り私も共々にシャツの腕まくりをして、誰に頼まれたわけでもないのに大汗をしぼつて模写などをした幾枚かの海洋図が散乱したり、作りかけの星座表が投げ出してあり、床には、つい此間まで有り難さうに部屋隅の書棚に飾り立てゝあつた古典ギリシャの芸術、科学、哲学に関する種々様々な書物が、くづれた煉瓦のやうに投げ棄てられ、三脚の上の望遠鏡は、直角に、古ぼけた天井を指差し、覆ひの布が被せられて有つた。
 私は、暗い片隅の固いベツドに横たはつて、ぼんやりと薄眼をあいてゐた。もう、とうに夜になつてゐたにも関はらず、私はランプを点さう――ともしなかつた。
 私は、時々カーテンの合せ目を細く開いて感慨深気な眼《まなこ》を傾げて、ひとり悦に入つてゐるかのやうな有様であつた。――「シノン物語」に、うつゝを抜かしはじめて以来私にとつて一つの新しい心癖が生じてゐた。私は、この展望室にゐる時は云ふまでもなく、細君と共に食卓を囲んでも、納屋の連中と共に会議に列席しても、村の酒飲連とマメイドで乾盃してゐる時でも――たゞ、其処が室内でさへあれば、それが木馬の腹の中のやうに、はつきりと、そのやうに
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