なかつた。
「あれ、小さい奥さまぢやない?」
 お妙が突然甲高い声を挙げたので、向うの繁みの方をお蝶が見ると、子供を伴れた、たしかに樽野の悴の女房が、ぶらり/\歩いて来る。女房は、短い海老茶袴のやうなものゝ上に、男のものでもありさうな毛糸のジヤケトを着て、ぷか/\と煙草を喫《ふか》してゐる。
「さうよ、さうだわ。」とお蝶も頓興な声をあげた。
 ………………
「直ぐに解つた? こゝの家――」女房は云つた。
「えゝ――」とお蝶は点頭《うなづ》いたのである。

[#5字下げ]三[#「三」は中見出し]

 お妙は、五つになる樽野の悴を伴れて附近の野原へ花摘みに出かけて行つた。樽野の悴の女房とお蝶は、次の一間しかない四畳半の茶の間で、時々何といふこともないわらひ声をあげては親し気に、飽かずに何かを語り合つてゐる。
(昼寝の者が眼を醒すまでの間に、二人がとり交した談話の、以下、わずかな断片)

          *

「さう/\、お蝶さんは、ツーちやんを知つてゐる筈ね……」
「学生さんの時分に夏、好くいらつしやいましたわね。」
「あら、今だつてまあだ、あの人……まあ学生――かしら。二三ヶ月前に、
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