な心持で、急に他の称び方をすることもないだらうさ。」
 さう云つてお蝶は、忘れてゐた煙草に火をつけた。――この悴の、四年前に死んだ父をダンナ、ダンナ! と称んでゐたお蝶達だつたが、お蝶は、今ではこの悴は真面目な務めに通つてゐるとばかり聞いて訪れて来たのであるが、一目この様子を見たゞけで、あの頃の彼と少しも変つてゐないことに気づいてゐた。そればかりでなくお蝶の気分は、ぼんやり、あの頃の彼等に戻つたやうに、夢に走つてゐた――お蝶の頭は酷く疲れてゐた。
「随分好くおよつて[#「およつて」に傍点]いらつしやることね、お二人とも……」
 お妙は、折角来ても――といふ顔色を露はに示した。――「小さい奥様は何処へいらつしつたんだらうね。」と、悴の女房のことを案じた。
 お蝶は、ふと、この家の生活《くらし》のことなどを考へると、惨めに、夢から醒めた。――滞在するつもりで来いとか、方々の芝居を案内するとか、いろ/\景気の好さゝうなことを云つてゐたが、あれは皆な可哀相なお世辞だつたのか――部屋の中を見渡したゞけでもお蝶は、さう思はずには居られなかつた。だが彼女は、別段来なければ好かつたといふやうな気も起ら
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