斯んな途方もない妥協心を持たうとする、姑息な弱さには辟易せずには居られなかつた。――そんな弱さに凝つと閉ぢ籠つてゐると彼は、何処までも心が、どんな刺激に対しても、吸はれて煙のやうな妥協性で、見る間に消えてゆくやうな思ひがした。消えまいとして、馬鹿な弱さを振り払つて、変な力を胸に思ひ切つて忍ばせて見ると、浮びあがる己れの姿は千辺一律で、物体に近い程の愚より他になかつた。彼は、もうとうに己れの愚を笑ふことには飽きてゐた。――彼は、自分の凡てが、態度、風彩……そんなものまでが、気障で、気障で、堪らなかつた――上滑りの感情で、定り決つた一つの考へ方の下に心を浪費して来た罰で、今では、そんな風に、空想力と感情の鈍い青年が往々落ち入る珍らしくもない患者になつてゐることを彼は、未だ気がつかなかつた。これもその箱から見つけたものであるが、丁度一年程前「自己紹介」といふ題で、返事を徴された時の返事であるが、曰く――どういふことを書いていゝのか何の見当もつかない、写真は笑顔を示さずに撮るのが普通だらう、そして男ならば成るべく深刻気な苦味を添へて――。だが僕には、深刻もなく苦味もないから六ヶしい顔も出来ない、だがまさか笑つた顔も見せられない、笑ひが必ずしも朗かの表象でもなからうが、兎も角僕は笑へないのだ、「泣き笑ひ」といふ心持もない、そこで極くあたりまへに、とならなければならないのだが、その落ちつきはまた持合せぬ、写真は例に過ぎない、この惨めな心が、だ。――「これは、たしか去年の冬だつた、未だ親父が生きてゐた頃だつた。」彼は呟いだ。その頃から、彼は、自分を故意に今のやうな、「病人」にしてしまつたのだ。また冬が来たのである。
「冬は駄目なんだ、俺は――」と、彼は意味あり気に呟いだ。
「僕は、毎年冬は駄目なんだよ。」と、彼は自分よりも若い友達に、云つた。「僕は、寒さには何の抵抗力も持たないんだ。――心が縮んで、干からびてしまふんだ。……だから散歩は御免蒙るよ。」
理由を云ふ必要もないのに彼は、気分を衒つて余外な説明をした。心が縮んで、干からびてしまふんだ――それも勿論わざとらしい自己吹聴ではあるが、もう少し常識的の言葉で云へば好さゝうな筈だが、加けに相手は文学嫌ひの工科大学生のBといふ運動家なのだが、これは彼の感じの上では嘘でもなかつたのだが、「冬に……」とか、「寒さ……」とかなどゝいふのは、おそらく法螺に相違なかつた。春になつたつて、夏になつてたつて、因循な心に変りはなく、無智な思想に変化のある筈はなかつた。――第一彼は、冬であらうと、春であらうと、陽気などに影響される程の繊細な神経などは、持ち合せてゐなかつた。たゞ、去年あたりから酒を飲み過す日ばかりを続けて来たので、いくらか胃を痛めてゐるらしく、常にゲツゲツと生唾気を吐いたり、異様に喧ましい咳を発するやうになつてゐた。一週間も酒を止めれば、治るに違ひなかつた彼は、
「斯う体が弱くては、やりきれない。」とか「俺は一体弱い質で、冬は何時でも斯うなんだ。」などゝいふことを周囲の者に吹聴して、不安を強ひたりした。
「もう少し暖くでもなれば、大いに君とも行動を共にしたいよ。」
「まつたくこの頃の君は、さつぱり元気がないね、もう少し暖くなつたらなんて、可笑しいなア。」と、Bは邪気なく笑つた。
「相当俺も、年寄り臭くなつたらう。晩酌はやるし、寒さにはふるへるし……か。」
「ところが、その酒だつて僕の方が強いんだからね。」
「…………」
「秋時分、君は、冬になつたら僕と一処に赤倉へスキーに行かうなんて云ふことを、口癖のやうに云つてゐたが、どうかね?」
「僕の女房は、僕のあの言葉にだまされて、ジヤケツを二枚も編んだよ。」
「ハツハツハ……」
「春になつたら……といふ僕の言葉は、もう信用しないかね」
「夏になつたら、泳ぎに行くかね……」
自分が冗談のやうな体裁で、話してゐるにも係はらず彼は笑つてばかりゐるBの言葉から依り所のない圧迫を感じた。
「僕の気分は、常に徒らな、小さな循環小数に過ぎないんだ。それぢやア駄目だね、ね、B君! それも酷く簡単な循環小数なんだよ、だが算術的能力に鈍い僕には、ちやんと鉛筆をとつて計算の上句、答へを求めて見ないうちは、それがさういふ種類の小数であつたかといふことが解らないんだ。最初与へられる数字が、何時も定つてゐて、そして勿論答へは何時も同じわけなのだが、直ぐに忘れてしまふんだな、そして毎日一度宛、その計算すら滅茶滅茶になつて……」
「少し酔つて来ると、変なことばかり云ふんで面白くないなア……」
「だつて君は、工科大学生ぢやないか。」
「それが、どうしたのさ、フツフツフ。」
「文科であつた俺よりは、算術は出来さうなものだ。」
時々彼は、そんな他合もないことをしちくどく喋舌つて、人の
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