好いBを当惑させた。
「一処に酒を飲むから、今日は算術の話だけは止めてくれよ。」
Bは彼に、そんなことを頼むやうにさへなつた、が少し酒が回つて相手がBだと、飽かずに彼は、同じことを云ひ出すのであつた。
――若し今度C氏に会つたら、一寸あの小説の終ひのところを言ひわけして見ようかな! そつと彼は、さう思つて、直ぐに冷汗に閉された。――彼は、理髪に行く度に、頭髪の格構が変つてゐた。注文をするのが嫌ひだつたから、何時でも問はれると「イヽ加減にやつてくれ。」と無愛想に答へるだけだつた。
二三日前に刈つて来た頭は、「スポーツ」と称する近頃流行の形だといふことをBが教へて呉れたのである。周囲を思ひ切り短く刈り、脳天に一握り程の頭髪が残つてゐる刈り方だつたが、Bのやうな偉丈夫ならば、好もしかつたが、彼だと見るからに軽卒で、それを眺めた時には彼の細君は、思はず噴き出して、彼の気嫌を損ねたのであつた。その短いところに風がしみて彼は、始終首を襟の中へ埋めてゐるやうな新しい癖が出来てしまつた。――風がしみないにしても、何も彼も間の悪いことばかりが多くて、襟の中に耳まで顔を埋め続けたい気がしてゐた。だから「スポーツ」刈りも案外、組みし易い気さへした。……「C氏にそんな愚痴めいたことを話すなんて止せ/\だ、あれはあれで仕方がないさ、そんな間があるのなら、別に考へなければならないことが控へてゐるぢやないか!」そして彼は、
「姑息! 姑息!」と、思ひながら狡く情けない笑ひを浮べてゐた。
ミス・F――や、照子を相手に因循な日を過した七八年も前の追憶をたどつて『或る日の運動』などゝいふ小説を書いたのであるが、あゝいふ花やかな友達を失つてゐる此頃の自分は、因循性の写る鏡を奪はれたやうなもので、当時は少くとも鏡に写つた瞬間だけは反撥力を振ひ、秘かに「一、二、三!」とも叫んだのであるが――彼は、そんなことを思つて「あゝ!」と溜息を衝いた。……「われ吹く笛は、闇の夜の戯れか。」当時歌つた、それは当時の溜息だつたが今ではそれ程微かな戯れも浮ばなかつた。「黒猫を抱けば夢よ、サフランと、桐の花とにさゝやかむ。」などゝも歌つたのだが、今では、どうしてそんなわけも解らないことを歌つたのか! 見当もつかないのだ。「朽ちる船に身を凭せて。」と、いふ一句だけが、いくらか凋んで行く心に触れる気がしたゞけであつた。それもたゞ、醜い妥協に過ぎなかつた。
ところで、「一、二、三!」で断ち切られた彼の『或る日の運動』には、次のやうな文章が続いてゐるのだ。
――そんな懸声をして私は、本の説明通りに腕を振つたり、脚をバタバタと動かせたりした。
平泳ぎ、背泳ぎ、両抜手、片抜手、競泳、立ち泳ぎ――等を悉く試みた。そして、
「こんなものは他合もない。」と、呟いだ。それから、もう相当の達人になつた心になつて、本は投げ飛して、部屋の中を縦横に逼ひ回つた。――椅子の上に立ちあがつて、両手を「天」に差し延べ「水中」めがけて飛び込んだ。苦しさうな息使ひをして、眼を閉ぢて、猛烈な競泳を試みた。疲れると、背泳ぎをして悠々と四肢を伸して水の上に浮んだ。ゆるやかな平泳ぎで、沖を見渡したり、渚を顧みたりしながら、人魚のやうに呑気に游泳した。――そして、ふつと馬鹿/\しさに気づくと、にわかに立ちあがつて、
「なアに、運動だよ、あまり気がムシヤクシヤしたから、気晴しに朝の運動を試みたまでのことさ。」などと、自分に弁解しながら、胸を拡げて大きな深呼吸をした。
その時、照子とFが、あわたゞしく帰つて来たが私の姿を見ると、わざとらしく驚いて「何をしてゐるの、裸になんかなつて!」と照子が、堪らなさうに笑つた。Fは、苦い顔をして横を向いてゐた。私は、今自分に言ひわけしたことゝ、同じ返答をしながら、惶てゝ着物を着たのである。
「運動をする位ひならば、妾達と一処に海岸へ行けば好いのに。」と、Fは不平さうに呟いだ。
「今日は随分大勢泳いでゐたわよ。」
「僕は、仕事が終らないうちは、出かけられないと云つてゐるぢやないか、大事の仕事が眼の前に控えてゐるんだ。」
私は、さう云ひ棄てゝ、静かに自分の部屋へ入つて行つた。――(四五日も続けて、今日位ひ熱心に練習すれば屹度大丈夫だ。鉄瓶の沸るのを見て、蒸汽機関を発明した人だつてあるぢやないか。)――十三年十二月――。
彼は、附け足してさう読み終つたが、一刻前の憤慨や焦慮が滑稽に思はるゝばかりだつた。
「久し振りに散歩がてら、Bを訪れて見よう。今日のやうに好く晴れた冬の景色は、一番好もしいに違ひない。」
彼は、そんなことを思ひながら、スポーツ刈りの頭を振つて、勢ひ好く立ちあがつた。[#地から1字上げ](十四年二月)
底本:「牧野信一全集第二巻」筑摩書房
2002(平成14)
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