に長い、そして、心に何の予猶も持つことの出来ない程苦しい或る小説に没頭してゐる最中だつた。息も絶へ絶へになりさうな苦しみだつた。一晩書いては、二晩続けて泥酔をする日ばかりを送つてゐた。そして未だ、稿半ばにも至つてゐなかつた。彼は、その小説で、父の死後に於ける母に対する子の或る苦しみに参つてゐた、そんなことより他に書くこともない愚劣な己れを呪ふ心から書き始めてゐたのである。自ら拵へた道徳の鞭に打たれて、悲鳴を挙げてゐるのであつた。
そんな場合だつたので一層C氏の言葉が、彼を明るくして呉れたのである。古い、あゝいふ種類の追憶にも、自分の文章の脈があるか、と思ふことは、彼にとつては、可成りの慰めに違ひなかつた。――現在のそんな「苦しさ」に没頭することは、寧ろ、愚かな業で、徒に心も文章も支離滅裂にしてしまふ怖れさへ感じた。
それで彼は、『或る日の運動』を読み始めたのであるが、たしかに指摘した筈の多くの誤植活字が、一つも訂正されてゐないので、多少の迷惑は感じたが――「だが私は、自分の小賢しき邪推を、遊戯と心得てゐた頃だつた、愚昧な心の動きを、狡猾な昆虫に例へて、木の葉にかくれ、陽りを見ず、夜陰に乗じて、滑稽な笛を吹く――詩を、作つて悲し気な微笑を洩してゐた頃だつた。」とか、「山村は、多少の恥らひを含みながらも、いつの間にか自分の技倆に恍惚として、息を衝く間も見せず鮮かに鉄棒に戯れた。天空を飛翻する鳶の如く悠々と「大車輪」の業を見せて、するりと手を離したかと見ると、砂地に近いところで伸々とした宙返りを打つた。べリイブライト……Fは思はず叫んで照子と私を顧みた。」とか、「Foolish といふ言葉に、軽蔑や嘲笑の意味が含まれてはゐないんだな、こいつア、返つてどうも堪らないぞ! 患者にされてしまつたわけなんだな……Foolish boy! A Foolish boy……私は、そんなことを呟きながら。」とか「妾だつて、洋服を着ければそんなに肥つて見へやしないわよ、妾は、さつきもお湯に入つた時、鏡の前に立つて見ると自分の格構に見惚れたわ、何だか自分ぢやない気がするのよ……と、照子は」とか、といふ風に、読んでゐると彼は、この頃の自分に引きくらべて、退屈ではあるが爽やかな快さを感じた。そして彼は、読み通して来ると、
「一、二、三!」で、その小説は終つてゐるでないか!
「この後が、少くとも二頁あまりなければならないのだ。」と彼は口を突らせて呟いだ。――大した不快を感ずる程の熱情もなかつたのではあるが、一寸酷いと思つた彼はあの箱の中から、去年戻つて来た儘になつてゐる最初の校正刷りを出して、験べて見た。――落ちてゐたのは二頁あまりではなくて一頁あまりだつたが、そんなことは如何だつて関はない! 此間の校正の時に、頁の順が入り乱れたりしてゐたので自分は、わざわざ終りまで訂正した番号数字を記入して渡したではないか! などゝ彼は、不平を洩した。
斯んなことで、肚をたてるなんか子供じみてゐるぢやないか! そんなに思つて彼は、つまらない苦笑を浮べたりしてゐるうちに、間もなく心から肚がたつてしまつた。
「斯んなところで、断ち切られて堪るものか、無責任にも程があるといふものだ。」
一、二、三! これは、その中では「私」となつてゐるが実際は彼自身である主人公が、独りで或る運動に取りかゝらうとしたハヅミの、てれ臭い掛け声なのである。
「チエツ!」と、彼は思はず顔を赤くして舌を鳴した。
一体彼の小説は、己れの痴想ばかりを厭にギリギリと綴り合せた態の文章だつたから、何処で断ち切らうと、或ひはまた如何続けようとも、大して効果に触れる程のものでもなかつたのだが、そんなことは彼は忘れてしまつて、大変に自尊心でも傷けられたやうな憤慨を感じたのである。
「何としても、一、二、三! が、結末ではやり切れない。……安価で、気障な技巧にさへ見えるではないか?」
彼は、反つて「自然の皮肉で――」などゝ思つた――自然の皮肉で、軽卒な思想の持主である己れを、巧みに冷笑されたやうな切なさを感じた。……つまらないことに興味を持つたり、愚かな心の戯れを美文調子に歌つたり、翻つて思へばどれもこれも鼻持のならない文句ばかりで――そして、この頃の何とかの苦しみとかも……皆な軽蔑に価する程の無用のことのやうに思つて、彼は、がつかりとしたのである。以前往々同人雑誌の友達などが、お前の小説は悪い意味で技巧的である、などゝ、批難されて、何の反す言葉もなかつた頃のことなどが、今更のやうに思ひに浮んだりした。
「偶然、こんなところで断ち切られた方が、反つて相当だつたのかも知れない、あの先の結末は一層気障な文章ぢやないか。」
彼は、ふとそんな馬鹿なことを思つて、間の抜けた笑ひを出した。それにしても、斯んな場合に、
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