!」
「手前エの阿母は、千葉県あたりの酌婦でゝもあつたんだらう。手前エも酌婦面をしてゐるぢやないか、ハツハツハ、俺も素晴しい道楽をしたものだ。」
「うちのお母さんなんぞは……」
周子は、それを二三辺繰り反すうちに、歪んだ眼からポロポロと涙を滾した。そして音をたてゝ歯を食ひしばつた。極度の亢奮が一寸行き詰つた時、彼女は、亢奮の先端で突然風車のやうに激しく息も切らさず喋舌り初めた。
「うちのお母さんなどは、あれでも立派なものなんだ。自分の阿母は何だ!」と、云ひかけた時周子の音声は、異様に白けて、滑らかだつた。「間男! 間男! 間男! 偉さうなことを云ふない。芝居だつて、お前ンとこの家のやうな古臭いことは、此頃ぢや流行るものか! 馬鹿ア! 皆んな死んでしまへ! あたしは何だつて皆な知ツてゐるんだ、阿父さんが皆な、あたしに話したことがあるんだ、お前がそんなに好い気になつてゐるんなら何んでも皆な喋舌つてやらう、友達などにまであたしの家の悪口を云つたらう! 自分好がりの、おべつかつかひ奴! ――自分の阿母は間男を……」
[#5字下げ]六[#「六」は中見出し]
彼は、話声が外に洩れない電話室のありさうなカフエーを二三軒探し回つたが、普段あまりさういふ処へ出入しないので、容易に適当な店が見当らなかつた。――雨の降り出しさうな寒い日の午後だつた。ウヰスキーを四五杯飲んでゐるのだが、心に変な屈托がある為か、それとも陽気が寒すぎる為か、顔も体も少しもほてツて来なかつた。
周子からあんな暴言を聞かされたが、その場の濁つた雰囲気さへ通り過ぎてしまへば、事柄は古くから彼の頭を重くしてゐることなので、今更別に驚きもしなかつた。周子には、此方から云はせるやうに煽動したやうなものである。お喋舌りの女を、ポカポカと殴つて、彼は反つて清々とした程だつた。
彼は、母に電話を掛けなければならなかつたのだ。二三日うちに小田原へ行くつもりなのだが、――突然行くのが厭だつた。
彼は、いつの間にか自家の近くの公園の中を歩いてゐた。そこで彼は、自動電話を探さうと思つたのだ。二度ばかり温和な手紙を、彼は母から貰つた儘になつてゐた。温和! それも彼は、好もしく思はなかつた。以前の母なら決して云ひさうもない言葉が、いくつも彼の眼に触れたのである。
自働電話では待つてる間が大変だ、ひとりでカフエーなどで凝と待つてゐるのも一層堪らなかつた――「大原の店へ行かう。」と、彼は気づいた。彼は急に脚を速めて引き返して、乗合自動車に乗つて日本橋まで行つた。
大原の店へ行つた時は、もう夜だつた。大原は、仕事を終へたところでテーブルに凭つてぼんやり煙草を喫してゐた。
電話は、そんなに待たされもしないで通じた。
「病気でゝもあるんぢやないかと思つた、あまり便りがないので――」
「皆な丈夫……」と、彼は云つた。
「今年は寒さが強いさうだね、そつちは。」
「えゝ。」
「此方も、何しろ家がこの通りだからね、私は此間風邪を引いて一週間も寝てしまつた。」
「もう、すつかり治つたの?」
「えゝ、そしてお前は何時帰るの。」
「二三日うちと思つてゐるんですが、どうも社の方の仕事が近頃忙しいもので……いや、帰る前の日には……」
「そして今日は何か用なの?」
彼は、黙つてゐた。傍に誰か居る気配がありはしまいか? 彼は、凝と疑り深くそんな聞き耳をたてたりした。――電話なんぞ掛けるんぢやなかつた、などと思つた。
「お蝶さんから何か便りがないですか。」
「ない。」と、母は明らかに不気嫌な気色を示した。――これからワザと母の前で、お蝶を案じるようなことばかり云つてやらう、そんなことを彼は思ひながら、
「いづれ帰つてから、いろいろ話しますが、あまり便りがないとすると、僕は今度そつちへ行つたついでに、静岡まで行つて見て来ようかと思つてるんですよ。」
「何を云つてゐるのさ、お前は! すつかりきまりがついて、あゝなつたんだからもう余外なことはしない方が好いんだよ。」
「さうですかなア!」と彼は、大袈裟に点頭く風を示して、そつと快い苦笑を感じた。暫く、この種の母の嫉妬を見なかつたので、何となく彼は懐しい思ひさへした。自分が悪徳を行つてゐるにも係はらず、未だに一寸でもお蝶の話に触れると露骨な自尊心を現はさずには居られない母を、こんな所で離れて感ずると彼は、皮肉にならずには居られなかつた。周子などを相手にして、切つ端詰つた思ひで苛々するのに比べると、母を相手にする方が心に奇妙におどけた余裕が出来て晴々しかつた。久し振に小田原へ行くことが、暖かい国へでも行かれるやうに楽しみだつた。
「だつてお蝶さんだツて、心細いでせうからね、見ず知らずの処へお光とたつた二人で行つてゐるんぢやア! せめて稀には僕でも行ツてやらなければ……」
彼は、さう云つて、舌でも出したかつた。お蝶の処へ行つて見たいのも確かには違ひなかつたが、勿論母になど云ふ必要はないのだ。寧ろ彼は、東京に来て以来、虫のやうに寒さに縮んだ生活をしてゐるので、稀にはお蝶でも訪ねて、朗らかに威張りたいのである。彼が喋舌ることを徹頭徹尾感心して諾く人間は、お蝶とお光より他になかつたから――。
「そんな馬鹿なことがあるものかね、あゝいふ商売の女なぞは呑気なものだよ、昨ふのことなぞ覚えてゐるものぢやない、お前のやうな人の好いことを、何時までも云つて居られるものぢやないよ。」
幸ひあなたは私といふ悴があるから、そんな好い気な熱も吹けるだらうが、どつこい! 親父にとつてはあなたよりもお蝶の方が好きな人間だつたんだからなア、フツフツフ、お蝶どころぢやないんだ。あなたは知らないだらうが、Nといふ混血児の娘だつてあるんぢやないか――彼は、そんな途方もない思ひに走つた。今迄彼は、親に対して所謂不孝な観察を起す場合には、いくらか自責の念にも駆られたが、今では伸々と手足を延して、般若の心で笑つてゐられる気がされた。なまじ母親を、慰めたり、同情したりする立場に置かれるよりは、こんな状態の方が自分の心に適つてゐるやうにさへ思はれた。親父の場合よりも不気味な不味《まづ》さはあつたが、それだけに心は反つて微妙な悪辣の光りを放つやうな気がした。――これ位ひの刺激がないと、自分のやうな鈍い神経の男は、忽ち生気を失つてしまふに相違ない、何と云つても俺は親を相手にして徒らな観察を回らす時が、一番生甲斐を感ずるんだ、それより他には能はないんだ、親父が死んだからと云つて、髪を切つて、墓参を業とされるよりも、見るのは嫌だが、若返つた母親を感ずる方が面白い、俺は薬液の切れかゝつたモヒ中毒患者だつた、阿母の注射で漸く心臓が躍動して来た――彼は、そんな馬鹿な想ひに走りながら、電話をかけたことに満足した。
「いや、あしたの晩帰ります、いろいろ。書類の方だつて私が験べなければならないでせう、晩迄に整理して置いて下さい、それで今一寸電話を掛けたのです。」
彼は、徐ろに斯んなことを云つて、母の返事も聞かずに、悠然と受話機を掛けたのである。
「阿母の御気嫌伺ひさ。今になつても僕は阿母の気嫌を取らないと、生活することが出来ないんだから心細いよ。」
彼は、晴々しく笑ひながら大原に向つて、そんなことを云つた。
「随分暫らく会はなかつたね。君が此処へ来てゐるとマザーは寂しいだらう。」
「さうらしいよ。」
「あゝいふ堅い阿母さんだから、そしてしつかりしてゐるから、未だ君だつてそんな呑気なことを云つてゐられるんだよ。少しは有り難味も解つたかね。」
古くから彼の母を知つてゐる大原は、そんなことを云つた。
「解つたね。」と、彼は戯れ気に笑つた。母を嘲笑ふ心か? それとも己れを嘲笑ふ心か? そんな区別は解らなかつたが、彼の胸は、常人の口にしない食物を悦んで味ふ食道楽者を真似て、口に入れた食物を見得で鵜呑みにした時と同じ擽つたい克己心に満ちてゐた。
[#5字下げ]七[#「七」は中見出し]
「清友亭のお園さんは、この頃来ませんかね。」と、彼は母に訊ねた。
「この間一辺、阿父さんのお墓参りに行つた帰りだと云つて寄つて呉れた。」
「さう、そりア感心だね、久し振りで今晩あたり行つて見ようかな。」
こんな言葉は、半年前なら決して母の前で許されなかつたものである。
「あすこも仮普請などで、また商売を初めたんだがさつぱりはやらないさうだ。」
そんな事は彼は、知つてゐるのだ。清親との騒ぎの時の彼の本陣である。あんな騒ぎはすつかり忘れた顔をして、二人とも済してゐるが、彼以上にその時の話に触れられることの厭らしい母を思ふと、彼は、遠回しにでも母の虚飾を突ツついてやりたかつた。母は、彼の云ふことを大方おとなしく受けいれた。そんな母ではなかつた。――これは自分以上に母の心の方が荒んでゐるのかも知れない、野となれ山となれ(母は以前、往々その言葉を用ひて彼の放埒を責めたことがある。)――母こそ今は、そんな心になつてゐるんぢやないかしら? などと思つて彼は、巧利的な心を動かしたりした。――弟の次郎が、隣りの部屋で低く電灯を降した机に凭つて筆記のペンを動かしてゐるのを眺めても、彼の胸は詰つた。彼の居ないことを好き幸ひにして、家中の者を呼び寄せて買ひ喰ひでもしてゐるだらう周子達に比べて、父を失ひ、不気味な母に見守られ、そしてたつた一人の放埒な兄より他にない次郎が可憐に思はれたりした、いつも兄の轍を踏んで、図太い不良青年にでもなつてくれたら、どんなに自分は救かるだらう――彼は、酷く詠嘆的にそんなことを思つたりした。
「次郎は今度も四番だかの成績ださうだ。この分で行つたら来年、四年で一高の試験が受かるかも知れないね。」
「うむ!」と、彼は、よく父が次郎の話になる時に示した通りな得意さを示した。次郎が隣りで聞いてゐるので、母を相手にする彼の気持は遠慮深かつた。地震で潰れた家の古木で建てた家の中は、この前にはそんな余裕がなかつたので気にもならなかつたが、今沁々と眺めると酷く殺風景だつた。
「葉山さんは?」
「風邪を引いて寝てゐるさうだ。」
こんな話をしてゐると彼の心は、忽ち滅入りさうだつた。酒を飲む彼を見て、遠慮深く不安な眼を挙げる母の様子も重苦しく感ぜられた。
直ぐ帰つて来る、と云つて彼は、外に出かけた。未だ宵だといふのに、街は森閑としてゐて、空地ばかりが多く、稍ともすると方角を誤りさうだつた。お蝶が秋まで住んでゐた掘立小屋は、労働者相手の居酒屋に変つてゐた。焼けだされた父が、お蝶達の仕末に困つて、大方自分の手で拵へた粗末な家だつた。おでん、かん酒と書いた赤い提灯が、軒先きに懸つてゐた。彼は、入つて見ようかと思つたが、こんな処で愚にもつかない思ひ出に耽るのは馬鹿々々しいと思つて止めた。――地震の後、十四五日経つて双方の安否が知れてから、彼は周子と英一と三人で小蒸汽船に乗つて、熱海から帰つた。一年目だつた。
「阿父さんは?」
彼は、母に訊ねた。
「浜の家の方へ行つてゐる。」と、母は云つた。
父の事業熱、放蕩、母の嫉妬、そんなものゝ間にはさまれて、倒々彼は逃げ出すより外はなくなつたのである。母に味方して父と野蛮な争ひをしたのも、その頃の事だ。彼奴とは一生口を利かない――父からそんな憤慨されたのである。一年の間に一度彼は、小田原へ出て来たが、その時父は折好く留守だつた。――私が居なければ、矢ツ張り困ることが多いだらう、さぞさぞ親父は呑気にお蝶の方へばかし行つてゐることだらう――そんな心で彼は、母から父の蔭口を聞いて、余裕あり気な微笑などを浮べてゐたところに、門の格子が開いて父が帰つて来た。
「あれは誰だ!」
唐紙を隔てゝ父の声がした。――彼は、ゾツとして、だが母には、顔つきだけで父を馬鹿にするといふ意味の渋面を示しながら、慌てゝ裏門から逃げ出した。一年の間に父の声は、それだけしか聞かなかつた。母の前で、父を罵ることが母に対する一種の諛ひとなり、かゝる醜き行為にパラドキシカルの優越を感じようとする自らを省みて彼は、暗然とせずには居られなかつた。
「斯うなつて
前へ
次へ
全9ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング