かに震えてゐた。彼の頭には、何の光りもなく、鈍い神経が日増しに卑屈に凋んで行く、可笑しい程惨めな影が自分ながら朧気に感ぜられた。――口を利けば利く程憂鬱になる、独りで凝つとしてゐると消えかゝる蝋燭のやうに心細くなる――そんなことを思つて彼は、独りで薄ら笑ひを洩した。低い心のレベルで、二つのうらはらな心の動きを眺めてゐるうちに、動けば動く程消極的に縮んで行く玩具のコマになるより他に術がない気がした。どうかね、東京の「新生活」は? などと友達に訊ねられると、彼は、にやにや笑ひながら「こうなつてから僕は、気分がすつかり明るくなつた。」などと答へた。そして――(だが、気分なんぞは明るくつたつて、暗くつたつて、言葉次第のことだからな。)明るいと云つたつて嘘とも思はないんだが、一寸彼は、胸のうちでそんなことを呟かずには居られなかつた。
「楽は好いが、図々しいのは困るぜ。」
「そんなことばかり云ふ、あなたが我儘なのよ。」
「逆はないやうにして貰ひたいんだ。」
「自分こそ図々しいのに気がつかないの?」
「さういふ風に、一つ一つ反対しないで、少しは素直に点頭くものだよ。」
「そんなことを云つてゐた日には、どんな酷い目に遇ふか解つたものぢやない、自分の心のまがつてゐるのも気附かないで――」
「まがつてゐたつて、まがつたなりに素直なら好いだらう、例へば大工の物差しは、あのやうにまがつてゐたつて、それでちやんと役に立つんだからね。」
波瀾をおそれてゐた彼は、笑つて、そんな出たら目を喋舌つた。周子は、つまらなさうに顔をそむけた。
「春になつたら、俺はアメリカへ行つて来たいと思つてゐるんだ。」
さう云つて彼は、アツ、こんなことは口へ出すんぢやなかつた、と思つたが、徒らに口に出す位ひでは、これは芝居気に違ひない、決心なんてついてはゐないんだ――そんな気がして、彼は、安ツぽい夢を払つたやうな安堵を感じた。
「ハツハツハ、嘘だよ。」
「何云つてんのさ、もうお酒はお止めになつたらどうなの? 十一時過ぎよ。」
「まア好いさ、いろいろ俺は考へごとがあるんだから……」
「ぢや、あたし寝るわよ。」
「どうも貴様の病気は怪しい、誇張してゐるに違ひない。」
「勝手に思つたら好いぢやないの――自分の悪いことは棚にあげて……」
「春になつたら、また当分田舎へ……」
「春になつたら、とは何さ、同じことばかり云つてるのね。田舎と云つたつて、あたしはもう小田原は御免よ。」
「俺も小田原は御免だ。だがいつかの熱海の家は、借金の形に取られてしまつたといふ話ぢやないか。」
「と云ふ話も何もあるもんですか、あなたがバカだからよ。」
そんな話で、バカだからなどと云はれると彼は、俺はお人好しだから俗事には疎いのさ、といふ風な途方もない虚栄心を誇つた。実際には何の口も利けないが、自分の物が失れた話を聞いたりすると、夥しく小さな吝嗇の心が動いて、極めて恬淡でない通俗的な疳癪が起るにも関はらず――。
「取られるのは当り前ぢやないの。」と、周子は他人の不幸を冷笑するやうな態度で続けた。「あなたの家なんて、皆な借金ばかりで固まつてゐたやうなものさ、小田原の地所だつてもう間もなく取られてしまふだらうツて、うちのお父さんも云つてゐたわよ。」
彼は、グツと苦い塊りに喉を突かれたが「仕方がないさ、ぢや田舎行きもお止めか、どうならうと、僕なぞは始めからそのつもりだから、平気なものだ。」と、云ひながらも周子の父親の顔を想ひ描かずには居られなかつた。――彼が、周子と結婚した当時、彼女の家は翌日の食に不安を覚える程の貧窮だつた。その頃、彼の家は形だけは幸福だつた。彼の父は、蜜柑の山を見廻つたり、鶏を飼つたりして、老境に入る支度をしてゐた。遠い国に混血児の妹がある――その事すら彼は知らなかつた頃である。彼は、叙情的な詩をつくつてゐた頃だつた。
「タキノや、家が斯んなに貧乏だつていふことが知れると、お前ら家へ行つて周子が辛い思ひをするだんべエから、黙つてゐて呉れろうよ、おらがお父ちやんだつて、そのうちには盛り返す、おらがついてゐるんだから……」
房州辺の、あくどいなまりで周子の母は彼にそんなことを頼んだ。間もなく周子の父は、様々な事業を携へて、彼の父を訪れた。彼の父は、今迄多くの事業で失敗し、未だ余憤が消えてゐなかつた為か、忽ち形もなひ製薬株式会社の社長になつたり、東北銀行創立、専務取締役になつたりした。周子のところでは、大崎の裏長屋から、目黒に家を買つて移転した。――東京から様々な人々が出入して、彼の父は滅多に家に帰らなくなつた。彼の父は、お蝶と親しくなつた。自動車などが、定期で借り切つてあつた。お蝶の家の門口には朝鮮信托会社小田原出張所などといふ札が掛つてゐた。
「さういふ話は、沁々と俺は、もう飽きてゐる。」と、彼は眼を瞑つて云つた。
「でもね、あたし達は好いけれど英一が可愛想だから、残るものなら何とかしてやらうツて、うちのお父さんが云つてゐますよ。あなたから、好く頼んだらどう? お坊ちやんがつてゐられる事でもないし、場合だつて……」
「そのうち頼まうよ。」
彼は、横を向いて力なく呟いだ。
「東京へ来てツから、すつかり意久地がなくなつたのね。」
周子は、さう云つて快《こころよ》げに笑つた。
[#5字下げ]四[#「四」は中見出し]
「父の百ヶ日前後」の頃には、愚かなりにも彼の心に病的な緊張があつた。父の幻を生々と、心に蘇らすことが出来た。今では、その幻も「お伽噺」となつて哀れな余影を、彼の眠がりな頭の隅に残してゐるばかりだつた。
たゞ愚図/\と、いぢけた日ばかり送つてゐても滅入るばかりだ、と思つて、彼は四五日前から、何か架空的な小説でも書かうと思ひ立つたのだが、終日机の前に坐つてゐても、たゞ物憂く情けなくなるばかりで、結局寝床にもぐつて暮してしまつた。
「神経衰弱といふ病気なのかな!」
そんな風にも思つて見たが、酒を飲むと相当元気になるところを思ふと、これも空々しく、彼は苦笑を洩すより他はなかつた。何の飾りもない二階の八畳の書斎には、隅の方に小机が一脚無造作に置いてあるばかりだつた。――彼は、寝転んで恨めしさうに、その机を眺めたりした。隙間だらけの唐紙や破れ放題になつてゐる障子の穴などからは、寒い風が遠慮なく吹き込んだ。
「どうも、困つたな!」
彼は、起き上つて机の置場所を様々に迷つたのであるが、どうしても落つけず、思はず焦れツたく舌を鳴した。――彼は、小机を抱えた儘、座敷の真ン中に突ツ立つてしまひ、腕を延し、胸を拡げて、苦々し気に天井を窺めたのだ。
此処で、と決めて坐つて見ると、一方の机の脚と畳との間には微かな隙が生じて、肘を突くとガクリとするのであつた。
「これ位ひのことで病はされるなんて、情けないことだ。」
彼は、そんなに思つて、悲しみさへ覚えた。他人の前では、何事につけても、平気を装ふたり、快活を衒つたり、酔つて葉山氏の口調を真似て、衣服や居住を意としないといふやうなことを壮語したこともあつたが、ふつと醒めて明るい日常に出遇ふと、己れの放つた矢で己れの胸を刺す思ひがするばかりだつた。破れ放題になつてゐる障子を見ても鬱陶しかつた。彼の家を訪れる者は、思はず踵を立てずには居られない程の汚れた畳を発見した。
「机の置場所が何だ、机の脚が動く位ひが何の心の妨げになるものか!」
傍から、そんな風にわざとらしく鞭打つて見たのだが、いざ畳と机の脚に間隙のある机の前に坐つて、凝ツと瞑目して、想ひを空に馳せて見るのだが、如何しても五分とは保たなかつた。――家が、まがつてゐるのだ。柱と唐紙との間には、細長い三角の棒が打ちつけてあつた。
小窓の下にも置いて見た。椽側に平行して、障子を眼の前にして坐つても見た。床の間と三尺の隔てをとつて、壁に向つて煙草を喫しても見た。悉くの窓を明け放して、頬杖を突いて、爽々しく晴れ渡つた冬の空を見上げても見た。隣りの三畳に移して、汚れた壁を背にして、大業に腕組みもして見た。――皆な失敗だつた。何処を選んでも、脚と畳に間隙が生じて、机の面が水平にならないことに、彼は気を腐らせた。
「あゝ、もう面倒臭い――」
彼は、間の抜けた溜息を洩して、机の上にどツかりと腰を降してしまつた。
「お父さんは、御勉強なんだからお二階へ行くんぢやありませんよ。」
階段の下から、周子が英一をたしなめた真実味のない乾いた声が聞えた。
「イヤア!」と、英一は叫んだ。おや、もうあんな生意気を喋舌るやうになつたのかな! などと彼は、思つた。
未だ外が明るいうちから彼は、晩酌をはじめてゐた。英一は、玩具の自動車に乗つて彼の周囲をグルグルと駆け廻つてゐた。
「毎日何をしてゐるの?」
「勿論勉強だよ。」と、彼は云つた。
「英一が動物園へ行きたいんですツて!」
「お前伴れてツてやれな。」
「だつて、あなたお留守居を厭がるぢやないの?」
そんな話をしてゐるところに、周子に使ひにやらせられた賢太郎が、大きな包みをさげて帰つて来た。賢太郎は、丁年の周子の弟である。大崎に居た頃程でもないが、この頃はまた周子の里は貧乏になつて、加けに行衛不明だつた姉が父親の解らない赤児を伴れて戻つて来てゐるのださうだつた。賢太郎は、その時分は学資に事を欠く程でもなかつたのださうだが、極端に内気で、殺されても厭だと云つて如何しても中学の試験をうけなかつた。尋常科を卒業したゞけで、漫然と成長してしまつた女のやうに優しい青年だつた。言葉使ひだとか物事の興味とかゞ、全く女だつた。尋常一年生の妹の学校通ひの服装は、凡て賢太郎が意匠を施した。編物とか子供服などの裁縫が巧みで、わざわざ銀座通りなどへ出かけて、服屋の飾窓を熱心に研究して、周子の古袴などで流行型の子供服を仕立てゝ妹に着せてゐた。そして賢太郎は、極端な貧乏嫌ひだつた。時には、彼は女学生の描くやうな美しい絵を描いて独りで楽しんでゐた。――この頃自家が面白くないもので、往々泊りがけで周子のところを訪れてゐた。
「この柄はどう? これスカートよ。」
賢太郎は、包みの中から布れ地を取り出して周子に示してゐた。
「これ、帽子の材料? 少し派手ぢやないかしら?」
「まア、あきれた。」と、賢太郎は眼を視張つた。「姉さんなんて何も知らないのね、銀座や丸ビルへ行つて御覧なさい、……赤いからと云つたつて何も派手と定つたものぢやないわよ。僕ちやんと洋服との配合を考へて、買つて来たんだから安心しなさいよ。」
「さうオ。」と、周子は手もなく黙らせられてゐた。
「何だい、それは? 何を拵へるんだい。」
チビチビ酒を飲みながら、黙つて奇妙な光景に見惚れてゐた彼は、突然訊ねた。
「何だつて好いぢやないの。」
「姉さんの洋服よ。」と、忙しさうに毛糸などを選り分けてゐた賢太郎が無造作に云つた。
「チエツ!」と、彼は思はず舌を鳴した。わけもなく顔の赤くなる気がした、「ハツハツ、冗談ぢやない。」
尤も彼には、さういふ趣味を嫌ふ一種の見得もないではなかつた。
「だつて、まさか自分で出来やしないだらう。」
「女の洋服なんて簡単よ、帽子だつて僕が拵へるのよ。」
「厭だ/\。」
「だつて、あたしの着物は皆な焼けてしまつたぢやないの、あなたは阿父さんのお古があるから好いだらうけれど――」
「だけど洋服は……」
「昨ふ小田原から北原さんがお金を持つて来ましたよ、あなたは寝てゐたから、あたしが受け取つたんだけれど、――今日半分費つちやつたわよ。あなたの云ふ通りになんてなつてゐたひには、半襟一つだつて買ふことは出来やしない。」
彼は、我慢して笑つてゐた。そんな話になると賢太郎は、悲しさうに眼を伏せてゐた。つい此頃になつて、彼の「仕事」も稀に金になることもあつたが、そんなことは少しも周子には知らさず、浮々と出歩いて有耶無耶に費消してしまつた。自分が得た金だつて、国から来る金だつて、彼には区別はなかつた。多少でも余裕のある間は、ひようひようと出歩いて家庭に落つかなかつた。そして直ぐに不景気になつて、家庭に居る間はケチケ
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