け容れられる位ひなら、僕はお前の国へは来なかつた筈だ。」
「バカ!」
「お前に、いつか貰つたオペラ・グラスを僕は今でも持つてゐるよ。此方へ来てお前と一処に芝居へ行かうと思つて、あれはちやんとトランクの中へ入れて来た。」
「お前は、あの時分、ワタシに微かな恋を感じてゐたのぢやなかつたかしら?」
「――僕は、NとNの母に会ひに来たんだ。」
 Nは、彼の見たことのない混血児の妹なのだ。Nの幼い写真は知つてゐる。Nの母も写真では知つてゐる。口で云ふ程彼は、NやNの母などに会ひたくはなかつた。漠然と彼女等の存在を思ふと、たゞ薄気味悪い気がするばかりで、会はずに済んで来たものならその方が楽だつた。Nのことを、まざまざと考へると父に対する好意が消えさうにもなる。得体の知れない嫉妬さへ覚ゆるのだ。
「勿論そのつもりだらう、そしてその案内役は勿論ワタシでなければならないね。」
「いや、今云つたことは嘘なんだよ、NやNの母などには会ひたくはないんだ。」
 ――僕もこゝに永く滞在して、父がN達を得たやうな真似がしたいんだよ――彼は、斯う云ひたかつたのである。

[#5字下げ]三[#「三」は中見出し]

「着物を畳まうとしたら、袂の中からこんなものが出て来た、今朝!」
 周子は、用箪笥から、手の平に握りかくせる程小さな、古いオペラ・グラスを取り出して彼に示した。「どうしたの? こんなものを小田原から持つて来たの?」
 彼は、大きな秘密でも発かれたやうに、喉の詰る思ひがした。
「いや、此間友達に貰つたんだ。」
「嘘々、あたしこれ確かに小田原で見たことがあつた。」と、周子は無造作に笑つた。「あたしに呉れない。」
「そりやアやつても好いがね、そんなもの誰にだつて必要ないぢやないか!」と、彼は、口を突らせてうなつた。ぢや、どうしてあなたは斯んなものを袂になぞ入れて出掛けたの? と、云ひ返せば彼がどんな返事をするか、彼自身にとつても解らなかつたが、
「でもよ、たゞ玩具によ。」と、周子は軽く笑つたゞけで、別段興味もないらしく火鉢の傍に投げ出した。彼も、知らん振りをして、ついこの頃になつて初めた晩酌の盃を傾けてゐた。
「ひとりで一升のお酒が、二晩目には足りないのよ。随分あなたは此頃お酒が強くなつたわね。」
 周子は、そんなことを云ひながら酒の代りを取りに立つて行つた。強くはない、大概彼は、寝る時は夢中だつた。何を喋舌つたか? どんなことをしたか? それが後になつて解らないのは随分薄気味悪るかつたが、それも毎日のことゝなると慣れてしまつた。動き、喋舌り、笑つたり、憤つたりしながら、顧ると、凡てが茫漠として、死のやうな平静――生きて、眼醒めてゐる時に左様な時間を与へられ得る――そんな風に意味あり気に考へて、わざとらしく不思議がつたり、愉快がつたり、そして酔を心易く思つたりした。
「そりやア、強いさ!」
 オペラ・グラスに就いて、周子が淡白だつたので彼は、ホツとして、気嫌の好い声を挙げたのである。そして無理に酩酊した調子で、
「われは眼に太山を見るなり……荘周夢に胡蝶となり、栩々然として胡蝶となり、か。自ら愉して心に適するや、周なるを知らず、俄然覚むれば即ち邁々然として周なり、周の夢に胡蝶となると、胡蝶の夢に周となるとを知らず……どうだア。」などと、鼻にかゝつた声で吟誦した。
「葉山さんの真似なんぞはお止めなさいよ、柄でもないわ。」
 葉山といふのは、酒飲みの老医師だつた。彼が、父に死なれて悄気てゐた頃、酒の相手になつて葉山氏が、好く彼を慰めて呉れた。葉山氏は、漢詩を作つたり南画を描くことに堪能だつた。
「鞭長しと雖も馬腹に到らず、だよ、事を成すは天に在り、さ。」
 少し酔つて来ると葉山氏の調子は、悉くそんな風だつた。彼には、はつきり解らなかつたが、葉山氏の詩吟で練へたといふ壮朗な音声には打たれた。
「抑々、支那の昔から、生物界は之を別ちて五虫となした、鱗虫即ち竜を長とし、羽虫即ち鳳を長とし、毛虫即ち麟を長とし、介虫即ち亀を長とし、そこで君、人間は何となるかな?」
「知らないですな。」
「万物の霊長だなんて自惚れちやいかんぞ。」
「さうですか。」
「当り前さ、人間は即ち裸虫と称するんだ。」
「ふむ!」
「厭に感心したね、――汝、裸虫よ、嘆くなかれ、眼に太山を見よ、ハツハツハ。」
 一寸感動すると、自信のない彼は、直ぐにその真似をするのが癖だつた。
「真似とは何だ! 失敬な。」
「阿父さんと一処に飲んでゐた頃は、阿父さんの口真似ばかりしてゐたぢやないの。この頃は、またあの藪医者の真似か――もう少し経つたら今度は誰の真似になるでせうね。」
 周子は、そんなことを云つた。葉山氏ともだんだん遠くなつて来た、まつたくこの次はどんな種類の酔漢になるだらうか――彼も、ふとそんな馬鹿な気がすると、軽い好奇心を感じたりした。
「藪医者とは何だ、失敬な。」と、彼は一刻前と同じやうに威張つた。「俺だつてそれ位ひの文句は知つてゐるんだ、即ち同じ裸虫と雖も……」
「もう止して下さいな、折角子供が寝たところなんだから……」と、周子は慰《なだ》めるやうに云つた。――彼は、無気になつて威張つたわけではなかつた。周子を、ごまかしたのだ。彼は、食膳の下のオペラ・グラスを、そんなことを喋舌つてゐる間に、そつと取つて懐中に忍ばせた。よかつた、と思つた。――十年も前にFに貰つた遠眼鏡である。大火の時に運び出された荷物の間に、彼は中学の時に使つた手文庫を見つけ出したので、何気なく開けて見たら隅の方に、昔彼の父が幼少の彼に送つた手紙の束と一処に、入つてゐたのだ。原稿などを入れるに、鍵がついてゐるから都合が好いと思つて彼は、出京する時の荷物の中に箱を収めて来た。
 芝居気のある彼は、そんな眼鏡を、この頃漫然と外出する時は、そつと内ふところに隠して出かける習慣をつくつた。そんな微かな秘密が、稚戯を喜ぶ彼の心に、仄かな明るさを宿した。
 ――前の晩彼は、泥酔して帰つて来た。友達が載せて呉れたタクシーの中で、彼の軽い体は、毯のやうにはづんで、座席から床に何度も振り落された。どうして、そんな処で降されたのか、おそらく彼が間違へて止めさせたのだらう、青白い瓦斯灯がぼツと煙つてゐる寂とした公園に彼は、立つてゐた。彼は、わけのわからぬ歌を、ブツブツと口のうちで呟きながら歩いてゐた。酔つてゐる頭が、軽くフワフワして、彼の胸には、変に暖く、賑やかな渦が、瓦斯灯の光りのやうに淡く点つてゐた。――また、家同志の話で、周子と醜い口論をした上句、カツとして飛び出したことなどは、すつかり忘れてゐた。
 暗い、夜更けの公園だつた。
「何も彼も懐しい、懐しくつて堪らない、照子、F……いや、周子だつて相当懐しいぢやないか!」
 彼は、そんなことを呟いだ。「親父だつて懐しいが、死んでしまつたんぢやお話にならないね。親父の印象も一日一日と遠ざかつてゆく、面白いぢやないか、お伽噺になつてくるんだもの。この冬が過ぎると、一年の喪といふものが明けるわけかな、一年、三年、七年……そんなことは、どうだつて関はないんだが、こんなにも脆く親父の印象が遠ざかつて行くかと思ふと、一寸彼に気の毒な気がするな、この分で行くと、春にでもなつたら、さぞかし俺の心は伸々として、朗らかに晴れ渡ることだらう……それにしても、今晩は、ばかに寒いな!」
 彼は、襟の中に頤を埋めた。ふところにこもつた酒臭く熱い息が、あかくなつた鼻を衝いた。――彼は、歩きながら、ふところの眼鏡に、そつと手を触れた。
「F……暫く、とても手紙は書けさうもないよ、お前の要求どほりな! つまり、ヘンリーが死んだとなると、NとNの母のことが、どんなに俺の心を不安にするか、お前には好く解るだらう、さうなるとお蝶といふ女の話もお前にしなければならないんだが、そんな話をするとヘンリーに対するお前の好意が薄らぎはしなからうか? NとNの母が、どんなにヘンリーを憾むだらうか? なんて、ヘンリーの、実は忠実な悴は心配するのさ、あの頃のヘンリーの家庭、つまり俺たちの家庭が、どんな風で、何故彼が放蕩者になつたか? そのことも話さなければならないんだ、だから、どうかヘンリーを放蕩者だと思つてくれるな、お前のダツデイは、ヘンリーの親友ぢやないか、そしてお前は、俺の親友だつた、かな? NとNの母の消息を出来るだけ多く知らせてくれ。――いつそ俺は、思ひ切つて、この冬が去つたらお前の国を訪ることにしようかな……」
 彼は、暗く重く心細いものに胸を塞さがれる思ひがした。
「これは、みんな嘘! Nも、Nの母も、ヘンリーも、俺は何とも思はないんだ、F! 俺は、お前だけに会ひたいんだよ、手紙の書けない理由も解るだらう。――馬鹿奴。」
 それも嘘のやうな気がした。彼の、酔つた感情は、単純で常に支離滅裂だつた。泣き上戸、と云はれたことがある、威張り上戸だ、とからかはれたこともある、母からは、気狂ひだ、と云はれたことがある。
「うーむ、苦しい、あゝ酔つた/\。」
 ――暗闇だ、人通りはない、多少の奇行を演じたつて差し支へはあるまいな――。
 彼は、熱くなつた眼に、手巾の代りにふところから出した遠眼鏡を、ぴつたりと圧しつけた。(涙なんて、滾れるのが不思議ぢやないか、拭いてしまへ/\。)――彼は、立ち止つた。そしてオペラ・グラスを当てた眼を空へ向けた。青く澄んだ空だつた。ところどころに星が光かつてゐたが、硝子が曇つて直ぐに見へなくなつた。彼は、眼鏡の視度を調節する輪を、無暗にクリクリと動かした。青黒い空が、近づいたり遠退いたりした。今度は、公園の夜の景色を眺めて見よう――そんなことを思つた時、彼は、酷い眩暈を感じて、危ふく倒れるところだつた。と同時に、突然魔物に襲はれる怖ろしさに怯えて、夢中で、動物園裏の家まで駈け込んだ、袂に投げ込んだ眼鏡が、石のやうに痛く手首に打つかるのも関はなかつた。
「芝居を見に行つたの、あんなものを持つて! 昨夜は?」と、周子は笑つて訊ねた。いくら酔つてゐたとはいへ、あんな馬鹿/\しい動作をしたり、感傷に走つたり、他合もない恐怖に襲はれたり、加けに駆け出したりしたことを思ふと、誰にも見られなかつたから好さゝうなものなのに、彼は、恥しさのあまり身の縮む思ひがした。
「行かうかと思つて、出掛けたんだが途中で厭になつて友達のところへ行つたんだ。」
「何処?」
「何処だつて好いぢやないか。」
「あなたは、何でも遠回しに思はせ振りな云ひ方をするのが好きね、遊びにでも何でも行つたら好いでせう、一端怒つて出掛けた位ひなら――」
「今日は、俺を怒らせないでくれ、頼むから。怒ることを考へると、面倒臭くつて仕様がないから。」などと彼は、有耶無耶なことを呟いで、優し気な声で哀願した。
「怒つて出かけたつて、ちつとも怖くはないわよ、直ぐに帰つてくるから。」
 彼は、ムツとしたが、まつたく今云つた通り、何の変化もない怒りの道程を方程式に依つて繰り反すことの煩しさを思ふと、堪へることの方が遥に楽な気がした。こんなことは珍らしかつた。
「俺が、阿母や清親の奴と、あんな風になつて此方へ来たものゝ、俺は決してお前を甘えさせはしないよ。第一、お前なんぞを味方だとも何とも思つてゐやアしない。」
「あの位ひ苦しい思ひをすれば、沢山だ。」
 周子は、もう聞き飽きたといふ風に白々しく呟いだ。
「第一俺は、貴様の家へなどは決して行かないよ、交際しないんだ。」
 危いな! と、彼は気附いたので、続かうとする言葉を呑み込んだ。
「えゝ、いゝわ、あたしだつてその方が反つて気が楽ですわ。」
 珍らしく逆はないで周子は、物解りの好さを見せつけるやうに点頭いた。一寸、取り済して眼を伏せた鼻の低い女の横顔を眺めると彼は、軽い反感が起つて、何かもう少し憎態な言葉でも吐きたかつたが、何よりもこの晩は、波瀾なく酔ふことを欲してゐたのだ。――殊に目立つて、彼のこの頃の癖で、如何にも潔癖らしく口先きだけは云ふが、心はいつも極めて弱々しかつた。胸の底は、酒にでも酔はない限り、いつまでも微
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