た。毛皮のついた外套などは、自分に不相応でもあるし、若者の着るべき物ではない――彼は、さう云はなければならなかつたが、云ひ損つた。そして自分の外套を脱ぎ棄てゝ、母が掛けて呉れるが儘に、後ろ向きに立つた。自分の働きが出来るまでは、絹物は一切身につけてはならない――常々さう云つてゐた母である。彼が学生時分派手なネクタイを用ひたと云つて、鋏で切つてしまつた母である。
 襟をたてると、耳の上まで埋つた。彼は、母が呼んで呉れた俥の上で、鳥打帽子の前《ひさし》を眉の下まで降し、毛皮に埋つた頬ツぺたの生温い感触に擽つたさを覚えながら、停車場へ走つた。東京へ帰つたら直ぐに「その後の母と彼」を書き続けよう、さう思ひながら彼は、狡い笑ひを浮べた。外套の襟にさへぎられた白い呼吸が、鼻や眼に触れた。[#地から1字上げ](十四、二)



底本:「牧野信一全集第二巻」筑摩書房
   2002(平成14)年3月24日初版第1刷
底本の親本:「中央公論 第四十巻第四号(春季大附録号)」中央公論社
   1925(大正14)年4月1日発行
初出:「中央公論 第四十巻第四号(春季大附録号)」中央公論社
   1925
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