ュ彼の心のシノニムに思はれ、[#横組み]“Ant”[#横組み終わり]十三語には、一つも恵まれてゐない気がして、夫々の文字が彼の眼の前で、壁を隔て/\哄笑してゐた。だが、さう思ふと彼は「その後の母と彼」の仕事に多少の力を得た。母に対しても、周子に対しても、その彼の弱さは決して[#横組み]“Evil”[#横組み終わり]の反意語ではなかつた。二つのうらはらの心と思つたのは、皆な彼の自惚れだつた。
「Ill, noxious, deleterious, wrong, bad」
 彼は、気障な文学青年らしくそんなことを呟きながら、澄んだ空を見あげてゐたが、また激しい咳に襲はれた。
「薬を飲んだら如何かね。」
 唐紙を隔てた儘母が、声をかけた。
 たゞ、いりません! と、返事をすれば足りたのに彼は、
「薬なんぞ飲めば、反つて気持が悪くなるばかりだ。」と、叫びながら一層激しく、今にも嘔吐が堪へ切れなくなりさうに咳き込んだ。
 翌日、彼が出ける時母は、彼の外套姿を眺めて、
「何だかお前の外套は、薄ツぺらで寒さうぢやないか、阿父さんのを出してやらう。」
 さう云つて、襟に毛皮のついた父の外套を取り出して
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