ばならないんです。だけどこの分では、汽車に乗れるか如何かゞ怪しまれて……」
 さう云つて彼は、苦しく喉を鳴した。あんな野蛮な口論をした周子ではあるが、今思ふと、あの公園裏の佗しい家が寂しく彼の心を惹くばかりであつた。周子の醜い影は消えて、哀れツぽいところだけが懐しく残つてゐた。女のやうな弟の賢太郎と二人で、洋服の裁縫に没頭してゐる姿を思つても、苦笑も浮ばなかつた。五六人の子供を持ちながら周子より他に頼るところのない彼女の母親も、気の毒だつた。英一を伴れて行つたのも仕方がない。――彼は、彼女達に対して斯んなにもパツシイヴな心になつて、何の抵抗も起らないのが可笑しかつた。十景のうち一つしかないやうな静かな光景だけが絶れ/\に佗しく浮ぶばかりだつた。
 周子は、喧ましい酔ひ振りの夫の声が止絶れた時、
「あれは何の声だらう。」と、眼を視張つた。雨の降つてゐる秋の夜更けだつた。動物園で叫ぶ獣の声が聞えるのであつた。「獅子かしら? 虎かしら?」
「一寸、好いぢやないか。」
 彼は、首を傾けて気障な声を挙げた。
「山の中にでもゐるやうだわね。」
「そんなこともないさ……」
「あなたの帰りが遅い晩は、
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