のことは云はないでくれ。」
「また泣くのかえ、止せやい、酒飲みらしくもない!」
「親父のことは、大抵忘れた……それ処ぢやないんだ、もつと/\……」
 酔つて脆くなつた彼の頭は、理性を失してもう少しで、書き悩んでゐるといふ材料(?)の話に移らうとしたが、この友達に話せる位ひなら書き悩む方も楽になるわけだつた。
「その後の母と彼」彼は、題名を想像したゞけで、胸が痛み、眼が呟む思ひに打たれた。
「本格的心境小説か!」
「……」彼はうつ向ひてゐた。
「俺の今度の小説は、それ式なんだ。」
「うむ、そりやア好いな。――俺は、毎年冬は駄目なんだ、それに俺の頭は、この頃変に通俗的になつたやうな気がする。」
「いや、それは心配するには及ばないよ。大人になることを、君は怖れ過ぎるんだよ。」
「だつて、怖れたつて仕様がないや。」
 母、母、母、母、母――彼の頭の中では、薄気味悪い文字が踊り回つてゐた。友達の言葉など頭へ入らなかつた。それを書くより他に、何の仕事も見出し得ない愚劣な大人! 愚劣な新進作家! 彼は、文明の世界に生きる価値のない気がした。父から彼は、嘗て西部アメリカの話を聞いて胸を踊らせた思ひ出が
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