「悪」の同意語
牧野信一

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)慰《なだ》める

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)それは/\
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[#5字下げ]一[#「一」は中見出し]

 小田原から静岡へ去つて、そこで雛妓のお光とたつた二人だけで小さな芸妓屋を始めたといふ話のお蝶を訪ねよう――さう思ふことゝ、米国ボストンのFに、最近の自分の消息を知らせなければならないこと――。
 この二つのことだけは、近頃彼が、自ら例へて冬籠りの地虫の心になつてゐる因循な頭に、いくらかの積極性を与へた。母や清親などゝ野蛮な争ひをした揚句、その儘周子と三歳の英一を伴れて東京へ来てしまつた彼だつた。
 だが彼は、父が生きてゐた頃も母とは幾度も争ひはしたことがあるので、今度だつてそんな[#「そんな」に傍点]ことでは憂鬱を感ずるどころではなかつた。母などとは、あんな騒ぎは忘れた顔をして、顔もあからめずに会へる気がした。苦い発作的の感情に、一時はカツとして向ツ肚をたてるが、根が安価な心の持主である彼だつたから、一瞬時後には呆然たる魚のやうにピツカリと洞ろな眼を挙げてゐるばかりだつた。恬淡ではない、狡くて、光りを知らない痴呆性に富んだ男に違ひないのだ。
 いつもの通り彼は、午過ぎまで寝床の中に縮んで、痴想に耽つてゐた。
「もう、そろそろほとぼり[#「ほとぼり」に傍点]も冷めた時分だらうから、小田原へも行つて見ようかな? 阿母がいくら頑張つたつて、親父の生きてゐる時分とはわけが違ふんだからなア!」
 彼は、上向けに寝て図太く冷い微笑を浮べてゐた。
「ひとつ、威厳を取り戻して来てやらうか……」
 悠々と彼は、煙草を喫した。襖が立て切つてあつたから、煙りは静かに天井まで延びて行つた。――(平気なものだ、何と落ちつき払つてゐることだらう。)
 彼は、一杯含んだ煙りを、大きく口をあけてハア、ハア、と吐き出しながら漠然と胸の拡がる思ひに打たれたが、ふつと醒めて煙りの中に清親や母の姿をはつきり感ずると、忽ち胸は冷汗に充たされてしまつた。
 口先きだけは花々しかつたが、一たまりもなく腕力家の清親にねぢ伏せられてしまつたぢやアないか――彼は、思はず自分の額をピシヤリと平手で叩いた。そして、痩ツぽちの癖に、袴を腹の下に絞め、襟をはだけて、奇妙に太い作り声を挙げて豪放を構えてゐた自分が、清親の腕につかまれると、藁人形のやうに軽々と撮み出されてしまつた光景を回想して、彼は、陰鬱に顔を歪めて、深く蒲団の中へもぐつてしまつた。――彼は、堪らない溜息を吐いた。
 そんな幻は払ひ落さうとして、彼は、首を振つたり、肚に力を込めたりして躍気になつたが、相手の横意地の方が強かつた。……彼は、映画に写つた己れの姿を、否応なく見せられなければならなかつた。
「礼儀を弁へぬにも程がある。」と、母の乾いた唇が細かく震へながら呟いだ。
「青二才の酔ツ払ひなんぞは……」と、それでもいくらか息を切らせた清親が、静かに盃を取りあげて、笑つた。「チヨツ! それにしても意久地のない男だな。」
「もつと酷い目に合せてやれば、よかつたんです、小面の憎い。」と母も苦笑した。
 ――彼も、今、もぐつた寝床の中で苦笑を洩した。と、彼の冷汗は、暗闇の中で奇妙に溶けて行つた。
「まつたく好い気味だつた。誰だつて、あの光景を眺めてゐた者は思はず溜飲をさげたに違ひない。」
 彼は、自分の惨めな姿を、セヽラ笑つてまつたく溜飲のさがる気がした。張り切つたゴム風船を、一気に踏み潰して、ポンとあつけない[#「あつけない」に傍点]音を耳にした時のやうな、洞ろな晴々しさを感じた。反つて、冷汗に閉され、筒抜けた因循に沈んで行く身心に、不意と溌剌たる光りを感じた。
「……ところで、まア当分小田原行きは控へて置いた方がよさゝうだ。」
 蒲団から首を出して彼は、力なく煙草を喫した。――あの時、周子も傍観者の一人だつた。いくら味方だつたにしろ、水中に投げ込まれた蝉のやうに次第に鳴りを秘めてしまつた俺の姿を眺めたら、一瞬間は道徳的理性を離れて、わけもない小気味好さを感じたに相違あるまい、当人の自分でさへ斯んな気がするんだから……いや、一瞬間どころではあるまい、口にこそ出さないが、彼女の東京に来て以来の図々しい態度から察しても、彼奴は無反省な馬鹿な女だから、あんな[#「あんな」に傍点]ところから知らず識らずこの俺を軽蔑する程度が強まつたのかも知れない――。
 彼は、そんなことを思つて苦い顔をした。母達に対しての自分の惨
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