めな姿は、こんなにも脆く凋んで、反つて光りを放つたが、相手が周子となると、彼の頑なゝ心は石のやうに武張つた。母の頑迷を醜くゝ思つた彼だつたが、母にも増した小賢しい、小人の心の動きを圧えることが出来なかつた。――彼の前で彼の母は、よく周子を批難したことがあつたが、今では時々彼は、その母を親しく思ふことがあつた。
「だけど考へても御覧な! 一体周子の何処に取り得があるの?」と、母は云つた。
「まつたくね。」
 私だつて承知してゐますよ、といふ風に彼は、にやにや笑ひながら盃を傾けてゐた。斯んな場合が、夫々この賤しく独り好がりな母と悴が、陰険な親し味に溶け合ふ場合だつた。だが肚の底では、互ひに愚かな優越を感じ合つてゐるのだ。――私達の云ふことも聞かないで、勝手に結婚なんてした罰さ、何と云はれたつて文句は云へまい、どうならうとお前のことなんて知らないよ、だ、態ア見ろ! ――母の心は、さう呟いでゐるし、また彼の心は、(低級な、悪い文学々生の臭気が抜け切れない彼である。)――俺は、利口ぶりの人間の顔を見てゐるのが好きなんだ、何とも云ひやうのない愉快を感ずるよ、さういふ相手に接すると俺は、巧みに其奴を煽てゝやるんだ、決して喧嘩なぞはしないね、互ひの愚を観察することは面白い仕事だ、ねえ阿母さん、――そんな他愛もない遊戯に耽つてゐた。
「琴なんぞは今時出来なくつても好いんだらうが、お茶のいれかたも知らないし、生花はおろか……」
「料理の法も一つも知らないし……」と、彼は伴奏でもするやうに附け加へた。
「春夏秋冬、懸物の懸換へ……」
「ハツハツハ。」と、彼は仰山に笑つた。「懸物なんぞ……床の間なぞの存在を知るものですか、――。暑い日には、暑いと感じ、寒い日には寒いと、おぼろげに意識するだけですよ。」と、彼は自分のことを云つてゐるやうな気がした。
 意識とか、感じとか、存在とか、何々的だとか、そんな言葉を臆面もなく彼は、母親などの前で使つた。
「学校などの成績は、どうだつたんだらう。」
「たしか中途で止めてしまひましたぜ。」
「親は親で、あの通りだし……」
 母は、さう云つたが、彼が余り易々と妥協するので、いくらか退屈を感じたらしい苦笑を浮べた。「手紙ひとつ書けないぢやないか、あの厭らしい文句はどういふわけだらう。」
「手紙?」と、彼はハツと思つた。が、まさか[#「まさか」に傍点]と高を括つて「手紙は私だつて書けやしないぢやありませんか。」と、ごまかすやうな笑ひを浮べた。東京へ行つてゐた間、母に手紙の返事を彼は、時々書いたが、よく母は彼の手紙の文章中の嘘字や仮名使ひの誤りの傍に線を引いて、返送して寄したものだつた。
「男とはわけが違ふもの。」と、母は云つた。母から、そんなに云はれたことは始めてだつたので、彼は軽い優越を感じた。だが彼は、母が何時何処で周子の手紙を見たのだらうか、と考へて見たが思ひ当らなかつた。未だ周子と結婚しない前、たしか四五度手紙の往復をした以外に手紙のある筈はなかつた。その手紙だつて、彼のにしろ周子のにしろ、出たら目ばかりに違ひなかつたから、一つだつて彼の記憶に残つてゐなかつた。
「周子の手紙なんぞ、どうして見たの? 阿母さんに寄したことがあるの?」
「お前に私が此間借りた本の間にはさんであつた、手紙ぢやないと思つてうつかり読んでしまつたのは悪かつたが――」
 母は、さう云ひながら茶箪笥の上に手を延して、部厚な本を彼に渡した。彼は、稍慌てゝ箱の中から、書物を抜き出した。無造作に畳んだ紙片れが、こぼれ出た。それでも彼は、思ひ当らなかつたので、拡げて読んだ。
(おなつかしきお兄様、御帰省なされていかにお暮しですか、周はいつぞやお兄様と日比谷を散歩したときのことを嬉しく思ひ出してゐますのヨ、あの時のお兄様のおやさしきお言葉……おゝ周の小さな胸は高鳴ります……詩をつくりましてよ、ホヽヽ、お見せしようか、よさうか、でもお笑ひになりはしないこと、それは/\拙いのよ、ホヽヽ。)
 読みかけて彼は、凝つとしてゐられなかつたが、辛うじて酒で紛らせて、
「手紙ぢやないんですよ、誰かのいたづら書きでせう。」と云ひながら、母に気づかれないように、ふところの中でそつと苦茶苦茶にまるめた。
「せめて体の丈夫なところが取得かね。」と、母は蔑んで笑つた。
「体だつて、此頃はさつぱり丈夫ぢやありませんよ。」
「だけど、それはお前が悪いんだもの。」
 遠くの、斯んな種類の家庭に伴れて来られて、常にそんな風に扱はれる周子の身を慮つて、彼は憐れを覚えた。彼女は奥の部屋で、意地悪な夫と姑の微かなセヽラ笑ひを耳にしながら、兄弟や両親のことを考へて、鬼の住家にでも囚はれの身になつた想ひに走つてゐることだらう――彼は、そんな風に察したりした。
 それにしても、東京に来てからの彼
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