つたら、さぞかし俺の心は伸々として、朗らかに晴れ渡ることだらう……それにしても、今晩は、ばかに寒いな!」
 彼は、襟の中に頤を埋めた。ふところにこもつた酒臭く熱い息が、あかくなつた鼻を衝いた。――彼は、歩きながら、ふところの眼鏡に、そつと手を触れた。
「F……暫く、とても手紙は書けさうもないよ、お前の要求どほりな! つまり、ヘンリーが死んだとなると、NとNの母のことが、どんなに俺の心を不安にするか、お前には好く解るだらう、さうなるとお蝶といふ女の話もお前にしなければならないんだが、そんな話をするとヘンリーに対するお前の好意が薄らぎはしなからうか? NとNの母が、どんなにヘンリーを憾むだらうか? なんて、ヘンリーの、実は忠実な悴は心配するのさ、あの頃のヘンリーの家庭、つまり俺たちの家庭が、どんな風で、何故彼が放蕩者になつたか? そのことも話さなければならないんだ、だから、どうかヘンリーを放蕩者だと思つてくれるな、お前のダツデイは、ヘンリーの親友ぢやないか、そしてお前は、俺の親友だつた、かな? NとNの母の消息を出来るだけ多く知らせてくれ。――いつそ俺は、思ひ切つて、この冬が去つたらお前の国を訪ることにしようかな……」
 彼は、暗く重く心細いものに胸を塞さがれる思ひがした。
「これは、みんな嘘! Nも、Nの母も、ヘンリーも、俺は何とも思はないんだ、F! 俺は、お前だけに会ひたいんだよ、手紙の書けない理由も解るだらう。――馬鹿奴。」
 それも嘘のやうな気がした。彼の、酔つた感情は、単純で常に支離滅裂だつた。泣き上戸、と云はれたことがある、威張り上戸だ、とからかはれたこともある、母からは、気狂ひだ、と云はれたことがある。
「うーむ、苦しい、あゝ酔つた/\。」
 ――暗闇だ、人通りはない、多少の奇行を演じたつて差し支へはあるまいな――。
 彼は、熱くなつた眼に、手巾の代りにふところから出した遠眼鏡を、ぴつたりと圧しつけた。(涙なんて、滾れるのが不思議ぢやないか、拭いてしまへ/\。)――彼は、立ち止つた。そしてオペラ・グラスを当てた眼を空へ向けた。青く澄んだ空だつた。ところどころに星が光かつてゐたが、硝子が曇つて直ぐに見へなくなつた。彼は、眼鏡の視度を調節する輪を、無暗にクリクリと動かした。青黒い空が、近づいたり遠退いたりした。今度は、公園の夜の景色を眺めて見よう――そんなことを思つた時、彼は、酷い眩暈を感じて、危ふく倒れるところだつた。と同時に、突然魔物に襲はれる怖ろしさに怯えて、夢中で、動物園裏の家まで駈け込んだ、袂に投げ込んだ眼鏡が、石のやうに痛く手首に打つかるのも関はなかつた。
「芝居を見に行つたの、あんなものを持つて! 昨夜は?」と、周子は笑つて訊ねた。いくら酔つてゐたとはいへ、あんな馬鹿/\しい動作をしたり、感傷に走つたり、他合もない恐怖に襲はれたり、加けに駆け出したりしたことを思ふと、誰にも見られなかつたから好さゝうなものなのに、彼は、恥しさのあまり身の縮む思ひがした。
「行かうかと思つて、出掛けたんだが途中で厭になつて友達のところへ行つたんだ。」
「何処?」
「何処だつて好いぢやないか。」
「あなたは、何でも遠回しに思はせ振りな云ひ方をするのが好きね、遊びにでも何でも行つたら好いでせう、一端怒つて出掛けた位ひなら――」
「今日は、俺を怒らせないでくれ、頼むから。怒ることを考へると、面倒臭くつて仕様がないから。」などと彼は、有耶無耶なことを呟いで、優し気な声で哀願した。
「怒つて出かけたつて、ちつとも怖くはないわよ、直ぐに帰つてくるから。」
 彼は、ムツとしたが、まつたく今云つた通り、何の変化もない怒りの道程を方程式に依つて繰り反すことの煩しさを思ふと、堪へることの方が遥に楽な気がした。こんなことは珍らしかつた。
「俺が、阿母や清親の奴と、あんな風になつて此方へ来たものゝ、俺は決してお前を甘えさせはしないよ。第一、お前なんぞを味方だとも何とも思つてゐやアしない。」
「あの位ひ苦しい思ひをすれば、沢山だ。」
 周子は、もう聞き飽きたといふ風に白々しく呟いだ。
「第一俺は、貴様の家へなどは決して行かないよ、交際しないんだ。」
 危いな! と、彼は気附いたので、続かうとする言葉を呑み込んだ。
「えゝ、いゝわ、あたしだつてその方が反つて気が楽ですわ。」
 珍らしく逆はないで周子は、物解りの好さを見せつけるやうに点頭いた。一寸、取り済して眼を伏せた鼻の低い女の横顔を眺めると彼は、軽い反感が起つて、何かもう少し憎態な言葉でも吐きたかつたが、何よりもこの晩は、波瀾なく酔ふことを欲してゐたのだ。――殊に目立つて、彼のこの頃の癖で、如何にも潔癖らしく口先きだけは云ふが、心はいつも極めて弱々しかつた。胸の底は、酒にでも酔はない限り、いつまでも微
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