つた。何を喋舌つたか? どんなことをしたか? それが後になつて解らないのは随分薄気味悪るかつたが、それも毎日のことゝなると慣れてしまつた。動き、喋舌り、笑つたり、憤つたりしながら、顧ると、凡てが茫漠として、死のやうな平静――生きて、眼醒めてゐる時に左様な時間を与へられ得る――そんな風に意味あり気に考へて、わざとらしく不思議がつたり、愉快がつたり、そして酔を心易く思つたりした。
「そりやア、強いさ!」
オペラ・グラスに就いて、周子が淡白だつたので彼は、ホツとして、気嫌の好い声を挙げたのである。そして無理に酩酊した調子で、
「われは眼に太山を見るなり……荘周夢に胡蝶となり、栩々然として胡蝶となり、か。自ら愉して心に適するや、周なるを知らず、俄然覚むれば即ち邁々然として周なり、周の夢に胡蝶となると、胡蝶の夢に周となるとを知らず……どうだア。」などと、鼻にかゝつた声で吟誦した。
「葉山さんの真似なんぞはお止めなさいよ、柄でもないわ。」
葉山といふのは、酒飲みの老医師だつた。彼が、父に死なれて悄気てゐた頃、酒の相手になつて葉山氏が、好く彼を慰めて呉れた。葉山氏は、漢詩を作つたり南画を描くことに堪能だつた。
「鞭長しと雖も馬腹に到らず、だよ、事を成すは天に在り、さ。」
少し酔つて来ると葉山氏の調子は、悉くそんな風だつた。彼には、はつきり解らなかつたが、葉山氏の詩吟で練へたといふ壮朗な音声には打たれた。
「抑々、支那の昔から、生物界は之を別ちて五虫となした、鱗虫即ち竜を長とし、羽虫即ち鳳を長とし、毛虫即ち麟を長とし、介虫即ち亀を長とし、そこで君、人間は何となるかな?」
「知らないですな。」
「万物の霊長だなんて自惚れちやいかんぞ。」
「さうですか。」
「当り前さ、人間は即ち裸虫と称するんだ。」
「ふむ!」
「厭に感心したね、――汝、裸虫よ、嘆くなかれ、眼に太山を見よ、ハツハツハ。」
一寸感動すると、自信のない彼は、直ぐにその真似をするのが癖だつた。
「真似とは何だ! 失敬な。」
「阿父さんと一処に飲んでゐた頃は、阿父さんの口真似ばかりしてゐたぢやないの。この頃は、またあの藪医者の真似か――もう少し経つたら今度は誰の真似になるでせうね。」
周子は、そんなことを云つた。葉山氏ともだんだん遠くなつて来た、まつたくこの次はどんな種類の酔漢になるだらうか――彼も、ふとそんな馬鹿な気がすると、軽い好奇心を感じたりした。
「藪医者とは何だ、失敬な。」と、彼は一刻前と同じやうに威張つた。「俺だつてそれ位ひの文句は知つてゐるんだ、即ち同じ裸虫と雖も……」
「もう止して下さいな、折角子供が寝たところなんだから……」と、周子は慰《なだ》めるやうに云つた。――彼は、無気になつて威張つたわけではなかつた。周子を、ごまかしたのだ。彼は、食膳の下のオペラ・グラスを、そんなことを喋舌つてゐる間に、そつと取つて懐中に忍ばせた。よかつた、と思つた。――十年も前にFに貰つた遠眼鏡である。大火の時に運び出された荷物の間に、彼は中学の時に使つた手文庫を見つけ出したので、何気なく開けて見たら隅の方に、昔彼の父が幼少の彼に送つた手紙の束と一処に、入つてゐたのだ。原稿などを入れるに、鍵がついてゐるから都合が好いと思つて彼は、出京する時の荷物の中に箱を収めて来た。
芝居気のある彼は、そんな眼鏡を、この頃漫然と外出する時は、そつと内ふところに隠して出かける習慣をつくつた。そんな微かな秘密が、稚戯を喜ぶ彼の心に、仄かな明るさを宿した。
――前の晩彼は、泥酔して帰つて来た。友達が載せて呉れたタクシーの中で、彼の軽い体は、毯のやうにはづんで、座席から床に何度も振り落された。どうして、そんな処で降されたのか、おそらく彼が間違へて止めさせたのだらう、青白い瓦斯灯がぼツと煙つてゐる寂とした公園に彼は、立つてゐた。彼は、わけのわからぬ歌を、ブツブツと口のうちで呟きながら歩いてゐた。酔つてゐる頭が、軽くフワフワして、彼の胸には、変に暖く、賑やかな渦が、瓦斯灯の光りのやうに淡く点つてゐた。――また、家同志の話で、周子と醜い口論をした上句、カツとして飛び出したことなどは、すつかり忘れてゐた。
暗い、夜更けの公園だつた。
「何も彼も懐しい、懐しくつて堪らない、照子、F……いや、周子だつて相当懐しいぢやないか!」
彼は、そんなことを呟いだ。「親父だつて懐しいが、死んでしまつたんぢやお話にならないね。親父の印象も一日一日と遠ざかつてゆく、面白いぢやないか、お伽噺になつてくるんだもの。この冬が過ぎると、一年の喪といふものが明けるわけかな、一年、三年、七年……そんなことは、どうだつて関はないんだが、こんなにも脆く親父の印象が遠ざかつて行くかと思ふと、一寸彼に気の毒な気がするな、この分で行くと、春にでもな
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