あれが怖くて仕様がないわ。」
「俺が居れば怖くはないのか?」
「…………」
そんな無意味な光景ばかりが浮んだ。――だが彼は、また東京へ戻つて彼女等に取り囲れて、打算的な愛嬌を示されて苛々することを思ふと、退儀だつた。
彼が、相手にならないので田村は、手持ぶさたになつて隣室へ行つて母と話を初めてゐた。震災の前から飼つてゐた※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]の残りが二三羽、潰れた儘になつてゐる庭を静かに歩いてゐた。
お蝶のことを考へても彼の心は動かなくなつた。いつの間にか彼女も微々たる「お伽噺」の端役に変つてゐた。――Fの遠い幻だけが、まだお伽噺にもならずに、夢のやうな明るさを、細く彼の胸に残してゐた。「その後の母と彼」の仕事は打ち切つて、NやNの母の空想を混ぜないFの追想をそれに換へよう――斯う思ふと、わずかな光りが味へる気がした。
椽側の隅に古く土に汚れた書籍が一塊りになつてゐた。彼は、そこから二三冊の本を選び出して、日向で繰り拡げた。読書嫌ひの彼は、退屈な時には徒らに辞書を眺める癖があつた。[#横組み]“Synonyms and Antonyms”[#横組み終わり]そんな名前の字引を彼は、偶然見出した。あのオペラ・グラスを貰つた頃、これも矢張りFの贈り物だつた。例へば、[#横組み]“Peril”[#横組み終わり]といふ文字を引くと、それの同意語として[#横組み]“Danger”[#横組み終わり]とか[#横組み]“Risk”[#横組み終わり]とか、[#横組み]“Venture”“Uncertainty”“Jeopardy”[#横組み終わり]等々々などといふ同意語が挙げてあり、同時に反意語として[#横組み]“Security”[#横組み終わり]とか、[#横組み]“Safety”[#横組み終わり]とか[#横組み]“Certainty”[#横組み終わり]等々々といふ風な文字が列挙されてゐるのだ。解らない文字の意味も、二十も三十も同意語、反意語で例証されゝば自づと通ずるのである。彼の英語が余り不たしかなのと、不得手で不便なことをFは迷惑がつて、多少皮肉な意味を含めてFが彼に贈つたのである。皮肉には違ひなかつたのである。Fは、扉に斯んな悪戯書きを残した。
[#ここから横組み]
“My father was a Farmer
Upon the Carric
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