らはらになつて、面白い自分の存在を感ずるなどといふ馬鹿気た真似が出来る筈はなかつたのである。――斯う気がつくと石のやうな酔ひに沈んでゐる自分を彼は、持て余さずには居られなかつた。眼の前に感ずる母が、怖ろしく空々しかつた。――折角酔も回り、好きな芸者達も来たところに飛んだ邪魔物が現れた――と、迷惑がるより他になかつた。
「随分外は寒かつたでせう、もう直ぐ帰りますからまア少しお飲みなさい、風邪でも引くといけませんからね。気の毒でした、気の毒でした。ハツハツハ。」
 彼は、突然滑らかに気嫌好くそんなお世辞を云ひながら、母の盃に酌をした。
 その先のことを彼は、大方忘れてしまつた。午近くに眼を醒した時には、ちやんと自分の家に寝てゐた。気嫌の悪い真似は何もしなかつたことだけは朧ろ気に覚へてゐるし、前の晩にも増して母が彼に、親切であることから推察しても、それは大丈夫だつたらしい、と彼は、思つた。
「まア今晩は私と、つき合ひなさいよ。」
 田村は、彼の問ひには答へずにまた同じことを云つた。何か母から頼まれたことでもあるのぢやないかな? 彼は、そんな気もした。
「僕は、今日は如何しても東京へ帰らなければならないんです。だけどこの分では、汽車に乗れるか如何かゞ怪しまれて……」
 さう云つて彼は、苦しく喉を鳴した。あんな野蛮な口論をした周子ではあるが、今思ふと、あの公園裏の佗しい家が寂しく彼の心を惹くばかりであつた。周子の醜い影は消えて、哀れツぽいところだけが懐しく残つてゐた。女のやうな弟の賢太郎と二人で、洋服の裁縫に没頭してゐる姿を思つても、苦笑も浮ばなかつた。五六人の子供を持ちながら周子より他に頼るところのない彼女の母親も、気の毒だつた。英一を伴れて行つたのも仕方がない。――彼は、彼女達に対して斯んなにもパツシイヴな心になつて、何の抵抗も起らないのが可笑しかつた。十景のうち一つしかないやうな静かな光景だけが絶れ/\に佗しく浮ぶばかりだつた。
 周子は、喧ましい酔ひ振りの夫の声が止絶れた時、
「あれは何の声だらう。」と、眼を視張つた。雨の降つてゐる秋の夜更けだつた。動物園で叫ぶ獣の声が聞えるのであつた。「獅子かしら? 虎かしら?」
「一寸、好いぢやないか。」
 彼は、首を傾けて気障な声を挙げた。
「山の中にでもゐるやうだわね。」
「そんなこともないさ……」
「あなたの帰りが遅い晩は、
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