かな……」
「ぢや皆なで唱歌を歌ひませうよ。汽車の歌ならあたし知つてるわ。」と、隅の方にゐた小さな雛妓が云つた。
「うむ、やつて見ろ。」
「合唱よ。」
「皆なでやつて見ろ。」
「――遠クニ見ユル村の屋根、近クニ見ユル町の軒、森ヤ林ヤ田ヤ畑、後ヘ/\ト飛ンデユク――廻リ灯籠ノ絵ノヤウニ、変ル景色ノ面白サ、見トレテソレト知ラヌ間ニ、早クモスギル幾十里――」
「何だか面白くねえな。何かもつと景気の好い歌をやつて貰はうか。お園さん、喧嘩ぢやないんだから阿母に電話をかけて呉れよ、さういふわけでね、阿母を気の毒に思ふのさ、だから一つ大いに仲善く……まつたく親父は酷いよ、自分が勝手なことばかりして罪もない阿母の悪口を云ふなんて……」
「そのおつもりで、これからは沢山親孝行をしなければなりませんね。」
「うむ、解つてゐるとも。屹度来るから呼んで呉れ、俺が酔つ払つてしまつて、如何しても阿母が来なければ帰らない、と云つてゐると――さう云つて呉れ。」

[#5字下げ]九[#「九」は中見出し]

「君は甘やかされて育つて来たんだよ。そして、兎も角我儘者なのだ。この先多くの苦しい人生の経験に出遇つて、いろいろ眼醒めることが多いだらう。」
 友達の一人が、彼に親切にさう云つて呉れたことがあつた。そして彼を本位にして、いろいろな忠告を与へて呉れた。彼は、自分を本位にされて快い忠告など与へられた験しがなかつたので、内心では可成り嬉しかつた。だが彼は、我儘者とか、甘やかされて育つたとか云ふ言葉を、好き意味に解釈して、嘗てそんな甘さに酔つたこともない癖に、わざとらしくそれらの言葉を、羞むやうに点頭いて受け容れた。さういふ態度をすれば、自分に対する相手の好意が更に増すであらう、などゝいふ風な狭い考へがあつた。相当の年齢に達してゐるにも関はらず彼は、幼稚を衒ふ婦のやうに姑息な心をもつてゐた。一体彼は、他人と相対してゐる時は、たゞでさへ朧気な己れの個性は悉く消滅してしまつて、鸚鵡の如くひたすら相手の気嫌を伺ふやうな心にのみなつてゐるのが常だつた。或る時は強がり、或る時は弱がり、或る時は神経質がりするが、それは悉くピエロの仮面を覆つた功利的の伴奏に他ならなかつた。自信がなくて、さういふ結果になる彼だつたから、独りの時は何の思想もない、たゞ人形の姿を持つた一個の物体に過ぎなかつた。だから多少でも他人の心の解る程
前へ 次へ
全42ページ中33ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング