ろからオペラ・グラスを取り出して眼に当てゝ見るところだつた。ふところがふくらんでゐる格構を好む彼は、何時でも不用な物を持ち歩くのが癖だつたが、この頃ではその眼鏡を離さなかつた。
彼が、この前清友亭を伴れ出されてから、周子と英一はお蝶達と一処に、東京へ出かける日まで此処に起き臥ししてゐた。「阿母が謝まらないうちは、俺はこゝに坐つてゐて、金でも何でも悉く横取りにしてしまふんだ。」
昼間から酒を呑みながら、お蝶を相手に彼は、強さうなことばかり云つてゐたのだ。
「東京へなんていらしつては駄目ですとも。若旦那が居なくなれば、それこそどんなになつてしまふか解りませんわ。」
彼が居なくなればお蝶はひとり[#「ひとり」に傍点]にならなければならなかつた。自分が居なくなつて、既に荒れ放題になつてゐる小さな財産などはどう[#「どう」に傍点]なるわけのものでもなかつたが、自分達が居なくなると多少でも母が清々するかと思ふと、動きたくなかつた。そして彼は、それ程でもない癖に、如何にも自分は死んだ父親の忠実な悴だといふ風なことを夢のやうに誇張して喋舌つたのである。
そんなことを回想すると彼は、今では母から返つて擽られるやうな間の悪さを覚へた。あれまで彼は、母の前で父を罵倒ばかりしてゐたのである。
彼は、白い息を吐きながら氷つた道をコツコツ歩いてゐた。暫らく歩いて、一寸振り返つて見ると、おでん、かん酒の提灯が、煙草の火程に小さく闇の中にぽつりと止まつてゐた。――望遠鏡を、あべこべにして見ると風景は、実際の距離の二倍に遠くなつて、さながら箱庭のやうに小さく映る――独りになつた時のこの頃の彼の心境は、そのやうに熱がなく、まつたく箱庭の泥で拵へた豆人形になつてゐた。ゆるやかな波の音を耳にしながら独りで斯んな暗い路を歩いてゐると、今にも暗の中へ吸ひ込まれて煙になつてしまひさうに心細かつた。――清友亭より他に、行く処はなかつた。
「東京へいらしつたと思つたら、忽ち通人におなりになりましたわね。」
彼は、坐敷に入つて少しばかり酒を飲むと、急にぺらぺらと愚にもつかないことを喋舌り出したのである。で、お園は、さう云つて笑つたのである。
「この間、お墓参りをして呉れたのだつてね、有り難う。」などと、彼は、わざとらしいお世辞を云つた。
「まア! お蝶さんから便りがありまして?」
「彼は手紙は書けないんだ
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