からは、まさか憤つても居られないでせう、ハツハツハツ。」
 念の為に彼は、母にそんなことを訊ねたりした。
「まるで意久地がありはしない、私は可笑しくつて仕様がない。」と、母は云つたが、その声は如何にも陰険だつた。
「どうしてなの?」
 彼は、母の調子に合せて、母と同じく陰険な苦笑を浮べた。
「どうして? と云つたつてお話にも何にもなりはしない。」
 震災以来阿父さんは、気が少々変になつたんぢやないかしら――母は、冷い調子でそんなことを云つた。
「まさか!」と、彼は厭な気がして横を向かずには居られなかつた。が、あくどい説明をする母の話で大体、父がそれ以来どんなに意久地なしになつてゐるか! といふことが察せられた彼は、寂しさなどは感じなかつた。放縦で焦点はなかつたが、今度の母の場合とは違つて、軽く健全な自分の存在を感じたのだ。(勿論母のことは何も知らなかつた頃である。)
「僕、ちよつと浜の家へ行つて見て来る。」
「朝鮮人騒動の噂の時などは、皆な刀を持つて見附を固めたぢやないか、灯りを点けてもいけないといふので、家の中は真ツ暗!」
「随分怖かつたでせう。」
「昔に返つたやうな気がして、――私だつてちやんと短刀を帯にはさんでゐた。」
「ほう! 随分強いんだね。」
 彼は、もう少しで随分臆病な阿母さんですね、と云ふところだつた。
「噂だけで、返つて気抜けがした。――そんな騒ぎだといふのに阿父さんの姿が見へないのさ、志村(清親のこと)なんて、後ろ鉢巻で門のところに蓆を引いて頑張つてゐるといふ騒ぎなんぢやないか! 阿父さん、阿父さん! といくら呼んでも返事もしない、どうしたんだらうと思つて、探して見ると、驚くぢやないか! 裏の空地で、長持の陰に蒲団が積んであるなかにもぐつて、狸寝入をしてゐるのさ! 大胆ぢやない、臆病なのさ、可笑しくつて仕様がなかつた。意久地なしの腰抜けさ!」
 母は、そんな例を二つばかり彼に話した。彼は、苦笑しながら窓辺を離れた。そして広い焼野原を見渡しながら浜の家の見当を眼指して、ぶらぶらと歩いて行つた。
「もぐつて入るんだよ、ハツハツハ、ちよつと器用に出来たらう。」
 拵へかけの小屋を指差して父は、さう云つた。それが最初の言葉だつた。
「こんな処に、窓もあるね。」
 彼は子供のやうな細い声でわけなくもそんなことを云つた。
「もう灯りを点けなければなるまい――
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