かるかも知れないね。」
「うむ!」と、彼は、よく父が次郎の話になる時に示した通りな得意さを示した。次郎が隣りで聞いてゐるので、母を相手にする彼の気持は遠慮深かつた。地震で潰れた家の古木で建てた家の中は、この前にはそんな余裕がなかつたので気にもならなかつたが、今沁々と眺めると酷く殺風景だつた。
「葉山さんは?」
「風邪を引いて寝てゐるさうだ。」
 こんな話をしてゐると彼の心は、忽ち滅入りさうだつた。酒を飲む彼を見て、遠慮深く不安な眼を挙げる母の様子も重苦しく感ぜられた。
 直ぐ帰つて来る、と云つて彼は、外に出かけた。未だ宵だといふのに、街は森閑としてゐて、空地ばかりが多く、稍ともすると方角を誤りさうだつた。お蝶が秋まで住んでゐた掘立小屋は、労働者相手の居酒屋に変つてゐた。焼けだされた父が、お蝶達の仕末に困つて、大方自分の手で拵へた粗末な家だつた。おでん、かん酒と書いた赤い提灯が、軒先きに懸つてゐた。彼は、入つて見ようかと思つたが、こんな処で愚にもつかない思ひ出に耽るのは馬鹿々々しいと思つて止めた。――地震の後、十四五日経つて双方の安否が知れてから、彼は周子と英一と三人で小蒸汽船に乗つて、熱海から帰つた。一年目だつた。
「阿父さんは?」
 彼は、母に訊ねた。
「浜の家の方へ行つてゐる。」と、母は云つた。
 父の事業熱、放蕩、母の嫉妬、そんなものゝ間にはさまれて、倒々彼は逃げ出すより外はなくなつたのである。母に味方して父と野蛮な争ひをしたのも、その頃の事だ。彼奴とは一生口を利かない――父からそんな憤慨されたのである。一年の間に一度彼は、小田原へ出て来たが、その時父は折好く留守だつた。――私が居なければ、矢ツ張り困ることが多いだらう、さぞさぞ親父は呑気にお蝶の方へばかし行つてゐることだらう――そんな心で彼は、母から父の蔭口を聞いて、余裕あり気な微笑などを浮べてゐたところに、門の格子が開いて父が帰つて来た。
「あれは誰だ!」
 唐紙を隔てゝ父の声がした。――彼は、ゾツとして、だが母には、顔つきだけで父を馬鹿にするといふ意味の渋面を示しながら、慌てゝ裏門から逃げ出した。一年の間に父の声は、それだけしか聞かなかつた。母の前で、父を罵ることが母に対する一種の諛ひとなり、かゝる醜き行為にパラドキシカルの優越を感じようとする自らを省みて彼は、暗然とせずには居られなかつた。
「斯うなつて
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