ことを云つた。
「随分暫らく会はなかつたね。君が此処へ来てゐるとマザーは寂しいだらう。」
「さうらしいよ。」
「あゝいふ堅い阿母さんだから、そしてしつかりしてゐるから、未だ君だつてそんな呑気なことを云つてゐられるんだよ。少しは有り難味も解つたかね。」
古くから彼の母を知つてゐる大原は、そんなことを云つた。
「解つたね。」と、彼は戯れ気に笑つた。母を嘲笑ふ心か? それとも己れを嘲笑ふ心か? そんな区別は解らなかつたが、彼の胸は、常人の口にしない食物を悦んで味ふ食道楽者を真似て、口に入れた食物を見得で鵜呑みにした時と同じ擽つたい克己心に満ちてゐた。
[#5字下げ]七[#「七」は中見出し]
「清友亭のお園さんは、この頃来ませんかね。」と、彼は母に訊ねた。
「この間一辺、阿父さんのお墓参りに行つた帰りだと云つて寄つて呉れた。」
「さう、そりア感心だね、久し振りで今晩あたり行つて見ようかな。」
こんな言葉は、半年前なら決して母の前で許されなかつたものである。
「あすこも仮普請などで、また商売を初めたんだがさつぱりはやらないさうだ。」
そんな事は彼は、知つてゐるのだ。清親との騒ぎの時の彼の本陣である。あんな騒ぎはすつかり忘れた顔をして、二人とも済してゐるが、彼以上にその時の話に触れられることの厭らしい母を思ふと、彼は、遠回しにでも母の虚飾を突ツついてやりたかつた。母は、彼の云ふことを大方おとなしく受けいれた。そんな母ではなかつた。――これは自分以上に母の心の方が荒んでゐるのかも知れない、野となれ山となれ(母は以前、往々その言葉を用ひて彼の放埒を責めたことがある。)――母こそ今は、そんな心になつてゐるんぢやないかしら? などと思つて彼は、巧利的な心を動かしたりした。――弟の次郎が、隣りの部屋で低く電灯を降した机に凭つて筆記のペンを動かしてゐるのを眺めても、彼の胸は詰つた。彼の居ないことを好き幸ひにして、家中の者を呼び寄せて買ひ喰ひでもしてゐるだらう周子達に比べて、父を失ひ、不気味な母に見守られ、そしてたつた一人の放埒な兄より他にない次郎が可憐に思はれたりした、いつも兄の轍を踏んで、図太い不良青年にでもなつてくれたら、どんなに自分は救かるだらう――彼は、酷く詠嘆的にそんなことを思つたりした。
「次郎は今度も四番だかの成績ださうだ。この分で行つたら来年、四年で一高の試験が受
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