ツて小説のことか。」
「当り前ぢやないか、厭な奴だね。文学青年がるまいと思つてゐやがる、三十にもなりやがつて!」
「だつて僕は、絵もかくんだからな!」と、彼は心から訴へた。以前油絵をやつたことがあるが、この頃になつて彼はいくらか絵の方に心を惹かれてゐた。
「僕は、昨夜例の小説を到々書きあげてしまつた、無慮百七十枚だ。今日は実に晴々しいんだ。」
「羨しいなア!」と、彼は思はず叫んだ。この頃彼は、小説を書き終へて晴れ晴れしい気持を味つたことがなかつたから――。「僕だつて、それやア書きかけてはゐるんだがね……」と、彼は続けて思はず冷汗を感じた。まつたく彼は一ト月も前から或る小説を書きかけてゐることは確かだつた。
「君は、此頃非常に遅筆ださうだね。」と友達は意味あり気に笑つた。
「うむ!」
「みつともねえぞ、――遅筆がりなんて! がり[#「がり」に傍点]とより他思へないよ。煽てるわけぢやないが、親父以来君の心境は、フツキレてゐるよ……」
「フツキレるツて、如何いふわけだ。」
「田舎者は話せねえな、フツキレるといふのは冷笑の言葉ぢやないよ、ふくれツ面をするねえ――推賞の言葉だよ。」
「……親父のことは云はないでくれ。」
「また泣くのかえ、止せやい、酒飲みらしくもない!」
「親父のことは、大抵忘れた……それ処ぢやないんだ、もつと/\……」
酔つて脆くなつた彼の頭は、理性を失してもう少しで、書き悩んでゐるといふ材料(?)の話に移らうとしたが、この友達に話せる位ひなら書き悩む方も楽になるわけだつた。
「その後の母と彼」彼は、題名を想像したゞけで、胸が痛み、眼が呟む思ひに打たれた。
「本格的心境小説か!」
「……」彼はうつ向ひてゐた。
「俺の今度の小説は、それ式なんだ。」
「うむ、そりやア好いな。――俺は、毎年冬は駄目なんだ、それに俺の頭は、この頃変に通俗的になつたやうな気がする。」
「いや、それは心配するには及ばないよ。大人になることを、君は怖れ過ぎるんだよ。」
「だつて、怖れたつて仕様がないや。」
母、母、母、母、母――彼の頭の中では、薄気味悪い文字が踊り回つてゐた。友達の言葉など頭へ入らなかつた。それを書くより他に、何の仕事も見出し得ない愚劣な大人! 愚劣な新進作家! 彼は、文明の世界に生きる価値のない気がした。父から彼は、嘗て西部アメリカの話を聞いて胸を踊らせた思ひ出が
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