ある。空想でなく、比喩でなく、彼は、明日にでも素ツ裸になつて、インデヤンの国へ走しつてしまひたかつた。
「これが出来上るまで英坊は、僕の家へ伴れてつて置きませうか、え? 姉さん。」
 編物を初めてゐた賢太郎が、周子に話しかけてゐた。
「さうね、だけど?」
 周子は、彼に気兼ねした。英一だけは、貴様の家の腐つた空気は吸せない、などゝ彼は云つたことがあるのだ。
「関やしないよ、うちの者は皆な子供好きだから、英坊だつて反つて賑やかで好いよ。」
「どうしよう!」と、周子は彼に、賛意を求めた。――彼は、返事をしなかつた。
「だつて姉さん、活動写真にだつて行きたいでせう。」
「えゝ、行きたいわ。」
「僕がお留守居するから、兄さんと一処に行つておいでよ。」
「兄さんは嫌ひよ。」
「さう! まア話せないわね。」
 賢太郎と周子は、仲好くそんなことを話し合ひながら、眼を凝して編物の針を動かせてゐた。

[#5字下げ]五[#「五」は中見出し]

 彼は、小説「父の百ヶ日前後」で、一つの嘘を書かずには居られなかつた。小説に事寄せて、一つ嘘の説明に逃れた。あのまゝで葬りたかつた。――清親は、母の二つ年上の兄である。と書いた。その小説の清親のやうな母の兄があつたので、彼は、涙をふるつて清親を叔父と書いたのだ。――清親は、彼の叔父ではなかつた。彼は、小説の蔭にかくれた己れを、殺して好いか、慰めて好いか、解らなかつた。嫌ひだ、と書いても母は懐しかつた。
 彼のペンの先きは、怪しく震へ、胸は不気味に掻き乱された。――他に、何の仕事も出来ないこと、そして、生れながらに行き詰つた己れの頭を、憎み、呪た。
 或る晩、わずかなことから彼は、周子と激しい争ひをした。徹夜を続けて、何十枚か書き溜めた原稿「その後の母と彼」を、破いて、蒼い顔をして階下に降りて来たのだ。
「何処まで貴様の家は、この俺に祟ることなんだらう。」
 陰鬱に酔つた彼は、首を振つて斯んなことを云つた。「俺が、お前のやうな奴と知り合ひにさへならなければ、俺の家は、明るく幸福だつたんだ――また、英一を伴れて行きやアがつたな! 畜生奴!」
「親切にしてくれたものを、そんなことを云ふものぢやありませんよ。」
 賢太郎に悪る気のないことは、彼も知つてゐた。たゞ周子の家庭を考へると、無性に肚がたつてならなかつた。彼は、周子と知り合ひになつた、厭な言葉だ
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