チと煩い小言を、女に浴せた。仕事、と云ふのも彼は、可笑しかつた。学問はなく、思想はなく、作文の術もなかつた。中学時代、作文は丁ばかりだつた。あの頃彼が、秘かに想ひを寄せてゐた照子が、文学好きで、様々な文学者の名を恰も恋人のやうに憧れて、無慈悲にも彼に文科をすゝめた。文科でも始めのうちは作文の時間があつた。それは照子が、代作して呉れた。彼は、照子の作文は相当巧いと思つたが、四十五点以上を取つたことはなかつた。照子と喧嘩してしまつた後は、隣席の髪の毛の長い男が、彼を憐んで時々代作してくれた。……彼のこの頃の仕事は、小説だつた。彼の小説、といふのが、また彼には可笑しかつた。ノート・ブツクに叙情詩を書き綴つてゐた頃には、独りで多少の得意を感じたこともあつた。だが最近に彼の書く小説は、死んだ父を取り周つた自家の家庭の不和が主だつた。然も自家の不快に向つて、吐きかけた野卑な雑言に過ぎなかつた。それが仕事と思ふと、彼は、救はれぬ感じに打たれた。「君の小説の主人公を、君はいかに見てゐるのか!」そんなことを云はれると彼は、直ぐに胸がつまつた。本当なら主人公は、私としなければならないのだが彼は、いつでも自分であるべき主人公を「彼は――」「彼は――」と、書くのであつた。小説的と思つて「彼は――」とするのではなくて、自分があまり親不孝で、そして愚昧過ぎるのがわれながら醜く思はれて、せめて主人公だけは「彼は――」として、セヽラ笑つて見逃すより他はなかつた。何と悪評されても答へる術はなかつた。五枚書いては破り十枚、二十枚書いては破りするが、それは決して出来不出来の推敲ではなかつた。「この作者、果して父親小説以外のものが書き得るや否や?」こんなことを云はれると、彼は他人の前では「何だ失敬な、三つや四ツ父親の小説を書いたからと云つて、それで俺の創作範囲を限定するなどとは無礼にも程がある。俺はこれでも想当空想の自由が利く男なんだ。」などと、まことしやかな憤慨を洩すが、云ふまでもなく大学文科の頃と何の差もない彼である。あの騒々しい親父が死んでしまつたら、もう何も書くこともなく、せめて追憶に光りでもあれば、何と批難されたつて同じやうなものを執筆するであらうが、それも今では「お伽噺」に変つてゐる。彼は、お伽噺は書く気になれなかつた。
「此頃、何か書いてゐるか?」と、或る友達が彼に訊ねた。
「書いてゐるか?
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