ねばならぬ。能動的意識にては右の形式が明であるが、受動的意識では観念を結合する者は外にあり、観念は単に外界の事情に由りて結合せらるるので、或全き者が内より発展完成するのでないように見える。しかし我々の意識は受動と能動とに峻別することはできぬ。これも畢竟《ひっきょう》程度の差である。聯想または記憶の如き意識作用も全然聯想の法則というが如き外界の事情より支配せらるるものでない、各人の内面的性質がその主動力である、やはり内より統一的或者が発展すると見ることができる。ただいわゆる能動的意識ではこの統一的或者が観念として明に意識の上に浮んでいるが、受動的意識ではこの者が無意識かまたは一種の感情となって働いているのである。
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能動受動の区別、即ち精神が内から働くとか外から働を受けるとかいうことは、思惟に由って精神と物体との独立的存在を仮定し、意識現象は精神と外物との相互の作用より起るものとなすより来るので、純粋経験の事実上における区別ではない。純粋経験の事実上では単に程度の差である。我々が明瞭なる目的観念を有《も》っている時は能動と思われるのである。
経験学派の主張する所に由ると、我々の意識は凡て外物の作用に由りて発達するものであるという。しかしいかに外物が働くにしても、内にこれに応ずる先在的性質がなかったならば意識現象を生ずることはできまい。いかに外より培養するも、種子に発生の力がなかったならば植物が発生せぬと同様である。固《もと》より反対に種子のみあっても植物は発生せぬということもできる。要するにこの双方とも一方を見て他方を忘れたものである。真実在の活動では唯一の者の自発自展である、内外能受の別はこれを説明するために思惟に由って構成したものである。
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凡ての意識現象を同一の形式に由って成立すると考えるのはさほどむずかしいことでもないと信ずるが、更に一歩を進んで、我々が通常外界の現象といっている自然界の出来事をも、同一の形式の下に入れようとするのは頗《すこぶ》る難事と思われるかも知れない。しかし前にいったように、意識を離れたる純粋物体界という如き者は抽象的概念である、真実在は意識現象の外にない、直接経験の真実在はいつも同一の形式によって成立するということができる。
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普通には固定せる物体なる者が事実として存在するように思うている。しかし実地における事実はいつでも出来事である。希臘《ギリシャ》の哲学者ヘラクレイトスが「万物は流転し何物も止まることなし」Alles fliesst und nichts hat Bestand. といったように、実在は流転して暫くも留まることなき出来事の連続である。
我々が外界における客観的世界というものも、吾人の意識現象の外になく、やはり或一種の統一作用に由って統一せられた者である。ただこの現象が普遍的である時即ち個人の小なる意識以上の統一を保つ時、我々より独立せる客観的世界と見るのである。たとえばここに一のランプが見える、これが自分のみに見えるならば、或は主観的幻覚とでも思うであろう。ただ各人が同じくこれを認むるに由りて客観的事実となる。客観的独立の世界というのはこの普遍的性質より起るのである。
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第五章 真実在の根本的方式
我々の経験する所の事実は種々あるようであるが、少しく考えて見ると皆同一の実在であって、同一の方式に由って成り立っているのである。今|此《かく》の如き凡《すべ》ての実在の根本的方式について話して見よう。
先ず凡ての実在の背後には統一的或者の働きおることを認めねばならぬ。或学者は真に単純であって独立せる要素、たとえば元子論者の元子の如き者が根本的実在であると考えている、しかし此の如き要素は説明のために設けられた抽象的概念であって、事実上に存在することはできぬ。試に想え、今ここに何か一つの元子があるならば、そは必ず何らかの性質または作用をもったものでなければならぬ、全く性質または作用なき者は無と同一である。しかるに一つの物が働くというのは必ず他の物に対して働くのである、而《しか》してこれには必ずこの二つの物を結合して互に相働くを得しめる第三者がなくてはならぬ、たとえば甲の物体の運動が乙に伝わるというには、この両物体の間に力というものがなければならぬ、また性質ということも一の性質が成立するには必ず他に対して成立するのである。たとえば色が赤のみであったならば赤という色は現われようがない、赤が現われるには赤ならざる色がなければならぬ、而して一の性質が他の性質と比較し区別せらるるには、両性質はその根柢において同一でなければならぬ、全く類を異にしその間に何らの共通なる点をもたぬ者は比較し区別することができぬ。かくの如く凡て物は対立に由って成立するというならば、その根柢には必ず統一的或者が潜んでいるのである。
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この統一的或者が物体現象ではこれを外界に存する物力となし、精神現象ではこれを意識の統一力に帰するのであるが、前にいったように、物体現象といい精神現象というも純粋経験の上においては同一であるから、この二種の統一作用は元来、同一種に属すべきものである。我々の思惟意志の根柢における統一力と宇宙現象の根柢における統一力とは直《ただち》に同一である、たとえば我々の論理、数学の法則は直に宇宙現象がこれに由りて成立しうる原則である。
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実在の成立には、右にいったようにその根柢において統一というものが必要であると共に、相互の反対むしろ矛盾ということが必要である。ヘラクレイトスが争《あらそい》は万物の父といったように、実在は矛盾に由って成立するのである、赤き物は赤からざる色に対し、働く者はこれをうける者に対して成立するのである。この矛盾が消滅すると共に実在も消え失せてしまう。元来この矛盾と統一とは同一の事柄を両方面より見たものにすぎない、統一があるから矛盾があり、矛盾があるから統一がある。たとえば白と黒とのように凡ての点において共通であって、ただ一点において異なっている者が互に最も反対となる、これに反し徳と三角というように明了の反対なき者はまた明了なる統一もない。最も有力なる実在は種々の矛盾を最も能く調和統一した者である。
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統一する者と統一せらるる者とを別々に考えるのは抽象的思惟に由るので、具体的実在にてはこの二つの者を離すことはできない。一本の樹とは枝葉根幹の種々異なりたる作用をなす部分を統一した上に存在するが、樹は単に枝葉根幹の集合ではない、樹全体の統一力が無かったならば枝葉根幹も無意義である。樹はその部分の対立と統一との上に存するのである。
統一力と統一せらるる者と分離した時には実在とならない。たとえば人が石を積みかさねたように、石と人とは別物である、かかる時に石の積みかさねは人工的であって、独立の一実在とはならない。
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そこで実在の根本的方式は一なると共に多、多なると共に一、平等の中に差別を具し、差別の中に平等を具するのである。而してこの二方面は離すことのできないものであるから、つまり一つの者の自家発展ということができる。独立自全の真実在はいつでもこの方式を具えている、しからざる者は皆我々の抽象的概念である。
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実在は自分にて一の体系をなした者である。我々をして確実なる実在と信ぜしむる者はこの性質に由るのである。これに反し体系を成さぬ事柄はたとえば夢の如くこれを実在とは信ぜぬのである。
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右の如く真に一にして多なる実在は自動不息でなければならぬ。静止の状態とは他と対立せぬ独存の状態であって、即ち多を排斥したる一の状態である。しかしこの状態にて実在は成立することはできない。もし統一に由って或一つの状態が成立したとすれば、直にここに他の反対の状態が成立しておらねばならぬ。一の統一が立てば直にこれを破る不統一が成立する。真実在はかくの如き無限の対立を以て成立するのである。物理学者は勢力保存などといって実在に極限があるかのようにいっているが、こは説明の便宜上に設けられた仮定であって、かくの如き考は恰《あたか》も空間に極限があるというと同じく、ただ抽象的に一方のみを見て他方を忘れていたのである。
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活きた者は皆無限の対立を含んでいる、即ち無限の変化を生ずる能力をもったものである。精神を活物というのは始終無限の対立を存し、停止する所がない故である。もしこれが一状態に固定して更に他の対立に移る能わざる時は死物である。
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実在はこれに対立する者に由って成立するというが、この対立は他より出で来るのではなく、自家の中より生ずるのである。前にいったように対立の根柢には統一があって、無限の対立は皆自家の内面的性質より必然の結果として発展し来るので、真実在は一つの者の内面的必然より起る自由の発展である。たとえば空間の限定に由って種々の幾何学的形状ができ、これらの形は互に相対立して特殊の性質を保っている。しかし皆別々に対立するのではなくして、空間という一者の必然的性質に由りて結合せられている、即ち空間的性質の無限の発展であるように、我々が自然現象といっている者について見ても、実際の自然現象なる者は前にもいったように個々独立の要素より成るのではなく、また我々の意識現象を離れて存在するのではない。やはり一の統一的作用によりて成立するので、一自然の発展と看做《みな》すべきものである。
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ヘーゲルは何でも理性的なる者は実在であって、実在は必ず理性的なる者であるといった。この語は種々の反対をうけたにも拘らず、見方に由っては動かすべからざる真理である。宇宙の現象はいかに些細なる者であっても、決して偶然に起り前後に全く何らの関係をもたぬものはない。必ず起るべき理由を具して起るのである。我らはこれを偶然と見るのは単に知識の不足より来るのである。
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普通には何か活動の主があって、これより活動が起るものと考えている。しかし直接経験より見れば活動その者が実在である。この主たる物というは抽象的概念である。我々は統一とその内容との対立を互に独立の実在であるかのように思うから斯《かく》の如き考を生ずるのである。
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第六章 唯 一 実 在
実在は前にいったように意識活動である。而して意識活動とは普通の解釈に由ればその時々に現われまた忽ち消え去るもので、同一の活動が永久に連結することはできない。して見ると、小にして我々の一生の経験、大にしては今日に至るまでの宇宙の発展、これらの事実は畢竟《ひっきょう》虚幻夢の如く、支離滅裂なるものであって、その間に何らの統一的基礎がないのであろうか。此《かく》の如き疑問に対しては、実在は相互の関係において成立するもので、宇宙は唯一実在の唯一活動であることを述べて置こうと思う。
意識活動は或範囲内では統一に由って成立することは略《ほぼ》説明したと思うが、なお或範囲以外ではかかる統一のあることを信ぜぬ人が多い。たとえば昨日の意識と今日の意識とは全く独立であって、もはや一の意識とは看做《みな》されないと考えている人がある。しかし直接経験の立脚地より考えて見ると、此の如き区別は単に相対的の区別であって絶対的区別ではない。何人でも統一せる一の意識現象と考えている思惟または意志等について見ても、その過程は各《おのおの》相異なっている観念の連続にすぎない。精細にこれを区別して見ればこれらの観念は別々の意識であるとも考えることができる。しかるにこの連続せる観念が個々独立の実在ではなく、一の意識活動として見ることができるならば、昨日の意識と今日の意識とは一の意識活動として見られぬことはない、我々が幾日にも亙りて或一の問題を考え、または一の事業を計画
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