性質的であって、潜勢的一者が己自身を発展するのである。意識はヘーゲルのいわゆる無限 das Unendliche である。
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ここに一種の色の感覚があるとしても、この中に無限の変化を含んでいるといえる、即ち我々の意識が精細となりゆけば、一種の色の中にも無限の変化を感ずるようになる。今日我々の感覚の差別もかくして分化し来れるものであろう。ヴントは感覚の性質を次元に併《なら》べているが(Wundt, Grundriss der Psychologie, §5)、元来一の一般的なる者が分化して出来たのであるから、かかる体系があるのだと思う。
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第三章 実 在 の 真 景
我々がまだ思惟の細工を加えない直接の実在とは如何なる者であるか。即ち真に純粋経験の事実というのは如何なる者であるか。この時にはまだ主客の対立なく、知情意の分離なく、単に独立自全の純活動あるのみである。
主知説の心理学者は、感覚および観念を以て精神現象の要素となし、凡《すべ》ての精神現象はこれらの結合より成る者と考えて居る。かく考えれば、純粋経験の事実とは、意識の最受動的なる状態即ち感覚であるといわねばならぬ。しかし此《かく》の如き考は学問上分析の結果として出来た者を、直接経験の事実と混同したものである。我々の直接経験の事実においては純粋感覚なる者はない。我々が純粋感覚といっている者も已《すで》に簡単なる知覚である。而《しか》して知覚は、いかに簡単であっても決して全く受動的でない、必ず能動的即ち構成的要素を含んで居る(この事は空間的知覚の例を見ても明《あきらか》である)。聯想とか思惟とか複雑なる知的作用に至れば、なお一層この方面が明瞭となるので、普通に聯想は受動的であるというが、聯想においても観念聯合の方向を定むる者は単に外界の事情のみでは無く、意識の内面的性質に由るのである。聯想と思惟との間にはただ程度の差あるのみである。元来我々の意識現象を知情意と分つのは学問上の便宜に由るので、実地においては三種の現象あるのではなく、意識現象は凡てこの方面を具備しているのである(たとえば学問的研究の如く純知的作用といっても、決して情意を離れて存在することはできぬ)。しかしこの三方面の中、意志がその最も根本的なる形式である。主意説の心理学者のいうように、我々の意識は始終能動的であって、衝動を以て始まり意志を以て終るのである。それで我々に最も直接なる意識現象はいかに簡単であっても意志の形を成している。即ち意志が純粋経験の事実であるといわねばならぬ。
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従来の心理学は主として主知説であったが、近来は漸々主意説が勢力を占めるようになった。ヴントの如きはその巨擘《きょはく》である。意識はいかに単純であっても必ず構成的である。内容の対照というのは意識成立の一要件である。もし真に単純なる意識があったならば、そは直《ただち》に無意識となるのである。
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純粋経験においては未だ知情意の分離なく、唯一の活動であるように、また未だ主観客観の対立もない。主観客観の対立は我々の思惟の要求より出でくるので、直接経験の事実ではない。直接経験の上においてはただ独立自全の一事実あるのみである、見る主観もなければ見らるる客観もない。恰も我々が美妙なる音楽に心を奪われ、物我相忘れ、天地ただ嚠喨《りゅうりょう》たる一楽声のみなるが如く、この刹那いわゆる真実在が現前している。これを空気の振動であるとか、自分がこれを聴いているとかいう考は、我々がこの実在の真景を離れて反省し思惟するに由って起ってくるので、この時我々は已に真実在を離れているのである。
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普通には主観客観を別々に独立しうる実在であるかのように思い、この二者の作用に由りて意識現象を生ずるように考えている。従って精神と物体との両実在があると考えているが、これは凡て誤である。主観客観とは一の事実を考察する見方の相違である、精神物体の区別もこの見方より生ずるのであって、事実|其者《そのもの》の区別でない。事実上の花は決して理学者のいうような純物体的の花ではない、色や形や香をそなえた美にして愛すべき花である。ハイネが静夜の星を仰いで蒼空における金の鋲《びょう》といったが、天文学者はこれを詩人の囈語《げいご》として一笑に附するのであろうが、星の真相はかえってこの一句の中に現われているかも知れない。
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かくの如く主客の未だ分れざる独立自全の真実在は知情意を一にしたものである。真実在は普通に考えられているような冷静なる知識の対象ではない。我々の情意より成り立った者である。即ち単に存在ではなくして意味をもった者である。それでもしこの現実界から我々の情意を除き去ったならば、もはや具体的の事実ではなく、単に抽象的概念となる。物理学者のいう如き世界は、幅なき線、厚さなき平面と同じく、実際に存在するものではない。この点より見て、学者よりも芸術家の方が実在の真相に達している。我々の見る者聞く者の中に皆我々の個性を含んでいる。同一の意識といっても決して真に同一でない。たとえば同一の牛を見るにしても、農夫、動物学者、美術家に由りて各その心象が異なっておらねばならぬ。同一の景色でも自分の心持に由って鮮明に美しく見ゆることもあれば、陰鬱にして悲しく見ゆることもある。仏教などにて自分の心持次第にてこの世界が天堂ともなり地獄ともなるというが如く、つまり我々の世は我々の情意を本として組み立てられたものである。いかに純知識の対象なる客観的世界であるといっても、この関係を免れることはできぬ。
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科学的に見た世界が最も客観的であって、この中には少しも我々の情意の要素を含んでおらぬように考えている。しかし学問といっても元は我々生存競争上実地の要求より起った者である、決して全然情意の要求を離れた見方ではない。特にエルザレムなどのいうように、科学的見方の根本義である外界に種々の作用をなす力があるという考は、自分の意志より類推したものであると見做《みな》さねばならぬ(Jerusalem, Einleitung in die Philosophie, 6. Aufl. §27)。それ故に太古の万象を説明するのは凡て擬人的であった、今日の科学的説明はこれより発達したものである。
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我々は主観客観の区別を根本的であると考える処から、知識の中にのみ客観的要素を含み、情意は全く我々の個人的主観的出来事であると考えている。この考は已にその根本的の仮定において誤っている。しかし仮に主客相互の作用に由って現象が生ずるものとしても、色形などいう如き知識の内容も、主観的と見れば主観的である、個人的と見れば個人的である。これに反し情意ということも、外界にかくの如き情意を起す性質があるとすれば客観的根拠をもってくる、情意が全く個人的であるというのは誤である。我々の情意は互に相通じ相感ずることができる。即ち超個人的要素を含んでいるのである。
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我々が個人なる者があって喜怒愛欲の情意を起すと思うが故に、情意が純個人的であるという考も起る。しかし人が情意を有するのでなく、情意が個人を作るのである、情意は直接経験の事実である。
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万象の擬人的説明ということは太古人間の説明法であって、また今日でも純白無邪気なる小児の説明法である。いわゆる科学者は凡てこれを一笑に附し去るであろう、勿論この説明法は幼稚ではあるが、一方より見れば実在の真実なる説明法である。科学者の説明法は知識の一方にのみ偏したるものである。実在の完全なる説明においては知識的要求を満足すると共に情意の要求を度外に置いてはならぬ。
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希臘《ギリシャ》人民には自然は皆生きた自然であった。雷電はオリムプス山上におけるツォイス神の怒であり、杜鵑《ほととぎす》の声はフィロメーレが千古の怨恨であった(Schiller, Die Gotter Griechenlands[#「Gotter」の「o」はウムラウト(¨)付き] を看《み》よ)。自然なる希臘人の眼には現在の真意がその儘《まま》に現じたのである。今日の美術、宗教、哲学、みなこの真意を現わさんと努めているのである。
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第四章 真実在は常に同一の形式を有っている
上にいったように主客を没したる知情意合一の意識状態が真実在である。我々が独立自全の真実在を想起すれば自らこの形において現われてくる。此《かく》の如き実在の真景はただ我々がこれを自得すべき者であって、これを反省し分析し言語に表わしうべき者ではなかろう。しかし我々の種々なる差別的知識とはこの実在を反省するに由って起るのであるから、今この唯一実在の成立する形式を考え、如何にしてこれより種々の差別を生ずるかを明《あきらか》にしようと思う。
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真正の実在は芸術の真意の如く互に相伝うることのできない者である。伝えうべき者はただ抽象的空殻である。我々は同一の言語に由って同一の事を理解し居ると思って居るが、その内容は必ず多少異なっている。
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独立自全なる真実在の成立する方式を考えて見ると、皆同一の形式に由って成立するのである。即ち次の如き形式に由るのである。先ず全体が含蓄的 implicit に現われる、それよりその内容が分化発展する、而してこの分化発展が終った時実在の全体が実現せられ完成せられるのである。一言にていえば、一つの者が自分自身にて発展完成するのである。この方式は我々の活動的意識作用において最も明に見ることができる。意志について見るに、先ず目的観念なる者があって、これより事情に応じてこれを実現するに適当なる観念が体系的に組織せられ、この組織が完成せられし時行為となり、ここに目的が実現せられ、意志の作用が終結するのである。啻《ただ》に意志作用のみではなく、いわゆる知識作用である思惟想像等について見てもこの通りである。やはり先ず目的観念があってこれより種々の観念聯合を生じ、正当なる観念結合を得た時この作用が完成せらるるのである。
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ジェームスが「意識の流」においていったように、凡《すべ》て意識は右の如き形式をなしている。たとえば一文章を意識の上に想起するとせよ、その主語が意識上に現われた時|已《すで》に全文章を暗に含んでいる。但し客語が現われて来る時その内容が発展実現せらるるのである。
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意志、思惟、想像等の発達せる意識現象については右の形式は明であるが、知覚、衝動等においては一見|直《ただち》にその全体を実現して、右の過程を踏まないようにも見える。しかし前にいったように、意識はいかなる場合でも決して単純で受動的ではない、能動的で複合せるものである。而《しか》してその成立は必ず右の形式に由るのである。主意説のいうように、意志が凡ての意識の原形であるから、凡ての意識はいかに簡単であっても、意志と同一の形式に由って成立するものといわねばならぬ。
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衝動および知覚などと意志および思惟などとの別は程度の差であって、種類の差ではない。前者においては無意識である過程が後者においては意識に自らを現わし来るのであるから、我々は後者より推して前者も同一の構造でなければならぬことを知るのである。我々の知覚というのもその発達から考えて見ると、種々なる経験の結果として生じたのである。例えば音楽などを聴いても、始の中は何の感をも与えないのが、段々耳に馴れてくればその中に明瞭なる知覚をうるようになるのである。知覚は一種の思惟といっても差支ない。
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次に受動的意識と能動的意識との区別より起る誤解についても一言して置か
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