善の研究
西田幾多郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)明《あきらか》にした

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(例)今度|書肆《しょし》において

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(例)[#天より32字下げて地より3字上げで]西 田 幾 多 郎
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   序

 この書は余が多年、金沢なる第四高等学校において教鞭を執っていた間に書いたのである。初はこの書の中、特に実在に関する部分を精細に論述して、すぐにも世に出そうという考であったが、病と種々の事情とに妨げられてその志を果すことができなかった。かくして数年を過している中に、いくらか自分の思想も変り来り、従って余が志す所の容易に完成し難きを感ずるようになり、この書はこの書として一先ず世に出して見たいという考になったのである。
 この書は第二編第三編が先ず出来て、第一編第四編という順序に後から附加したものである。第一編は余の思想の根柢である純粋経験の性質を明《あきらか》にしたものであるが、初めて読む人はこれを略する方がよい。第二編は余の哲学的思想を述べたものでこの書の骨子というべきものである。第三編は前編の考を基礎として善を論じた積《つもり》であるが、またこれを独立の倫理学と見ても差支ないと思う。第四編は余が、かねて哲学の終結と考えている宗教について余の考を述べたものである。この編は余が病中の作で不完全の処も多いが、とにかくこれにて余がいおうと思うていることの終まで達したのである。この書を特に「善の研究」と名づけた訳は、哲学的研究がその前半を占め居るにも拘らず、人生の問題が中心であり、終結であると考えた故である。
 純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明して見たいというのは、余が大分前から有《も》っていた考であった。初はマッハなどを読んで見たが、どうも満足はできなかった。そのうち、個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである、個人的区別より経験が根本的であるという考から独我論を脱することができ、また経験を能動的と考うることに由ってフィヒテ以後の超越哲学とも調和し得るかのように考え、遂にこの書の第二編を書いたのであるが、その不完全なることはいうまでもない。
 思索などする奴は緑の野にあって枯草を食う動物の如しとメフィストに嘲《あざけ》らるるかも知らぬが、我は哲理を考えるように罰せられているといった哲学者(ヘーゲル)もあるように、一たび禁断の果を食った人間には、かかる苦悩のあるのも已《や》むを得ぬことであろう。

   明治四十四年一月[#19字下げて]京都にて
[#天より32字下げて地より3字上げで]西 田 幾 多 郎
[#改ページ]

   再 版 の 序

 この書を出版してから既に十年余の歳月を経たのであるが、この書を書いたのはそれよりもなお幾年の昔であった。京都に来てから読書と思索とに専《もっぱら》なることを得て、余もいくらか余の思想を洗練し豊富にすることを得た。従ってこの書に対しては飽き足らなく思うようになり、遂にこの書を絶版としようと思うたのである。しかしその後諸方からこの書の出版を求められるのと、余がこの書の如き形において余の思想の全体を述べ得るのはなお幾年の後なるかを思い、再びこの書を世に出すこととした。今度の出版に当りて、務台、世良の両文学士が余の為に字句の訂正と校正との労を執られたのは、余が両君に対し感謝に堪えざる所である。

   大正十年一月
[#天より32字下げて地より3字上げで]西 田 幾 多 郎
[#改ページ]

   版を新にするに当って

 この書刷行を重ねること多く、文字も往々鮮明を欠くものがあるようになったので、今度|書肆《しょし》において版を新にすることになった。この書は私が多少とも自分の考をまとめて世に出した最初の著述であり、若かりし日の考に過ぎない。私はこの際この書に色々の点において加筆したいのであるが、思想はその時々に生きたものであり、幾十年を隔てた後からは筆の加えようもない。この書はこの書としてこの儘《まま》として置くの外はない。
 今日から見れば、この書の立場は意識の立場であり、心理主義的とも考えられるであろう。然《しか》非難せられても致方《いたしかた》はない。しかしこの書を書いた時代においても、私の考の奥底に潜むものは単にそれだけのものでなかったと思う。純粋経験の立場は「自覚における直観と反省」に至って、フィヒテの事行《じこう》の立場を介して絶対意志の立場に進み、更に「働くものから見るものへ」の後半において、ギリシャ哲学を介し、一転して「場所」の考に至った。そこに私は私の考を論理化する端緒を得たと思う。「場所」の考は「弁証法的一般者」として具体化せられ、「弁証法的一般者」の立場は「行為的直観」の立場として直接化せられた。この書において直接経験の世界とか純粋経験の世界とかいったものは、今は歴史的実在の世界と考えるようになった。行為的直観の世界、ポイエシスの世界こそ真に純粋経験の世界であるのである。
 フェヒネルは或朝ライプチヒのローゼンタールの腰掛に休らいながら、日|麗《うららか》に花|薫《かお》り鳥歌い蝶舞う春の牧場を眺め、色もなく音もなき自然科学的な夜の見方に反して、ありの儘が真である昼の見方に耽《ふけ》ったと自らいっている。私は何の影響によったかは知らないが、早くから実在は現実そのままのものでなければならない、いわゆる物質の世界という如きものはこれから考えられたものに過ぎないという考を有《も》っていた。まだ高等学校の学生であった頃、金沢の街を歩きながら、夢みる如くかかる考に耽ったことが今も思い出される。その頃の考がこの書の基ともなったかと思う。私がこの書を物せし頃、この書がかくまでに長く多くの人に読まれ、私がかくまでに生き長らえて、この書の重版を見ようとは思いもよらないことであった。この書に対して、命なりけり小夜の中山の感なきを得ない。

   昭和十一年十月
[#天より36字下げて地より3字上げで]著  者
[#改丁]

   目   次(略)
[#改丁]

 第一編 純 粋 経 験

   第一章 純 粋 経 験

 経験するというのは事実|其儘《そのまま》に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫《ごう》も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。たとえば、色を見、音を聞く刹那《せつな》、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇なる者である。勿論、普通には経験という語の意義が明《あきらか》に定まっておらず、ヴントの如きは経験に基づいて推理せられたる知識をも間接経験と名づけ、物理学、化学などを間接経験の学と称している(Wundt, Grundriss der Psychologie, Einl. §I)。しかしこれらの知識は正当の意味において経験ということができぬばかりではなく、意識現象であっても、他人の意識は自己に経験ができず、自己の意識であっても、過去についての想起、現前であっても、これを判断した時は已《すで》に純粋の経験ではない。真の純粋経験は何らの意味もない、事実其儘の現在意識あるのみである。
 右にいったような意味において、如何なる精神現象が純粋経験の事実であるか。感覚や知覚がこれに属することは誰も異論はあるまい。しかし余は凡《すべ》ての精神現象がこの形において現われるものであると信ずる。記憶においても、過去の意識が直《ただち》に起ってくるのでもなく、従って過去を直覚するのでもない。過去と感ずるのも現在の感情である。抽象的概念といっても決して超経験的の者ではなく、やはり一種の現在意識である。幾何学者が一個の三角を想像しながら、これを以て凡ての三角の代表となすように、概念の代表的要素なる者も現前においては一種の感情にすぎないのである(James, The Principles of Psychology, Vol. I, Chap. VII)。その外いわゆる意識の縁暈《えんうん》 fringe なるものを直接経験の事実の中に入れて見ると、経験的事実間における種々の関係の意識すらも、感覚、知覚と同じく皆この中に入ってくるのである(James, A World of Pure Experience)。しからば情意の現象は如何《いかん》というに、快、不快の感情が現在意識であることはいうまでもなく、意志においても、その目的は未来にあるにせよ、我々はいつもこれを現在の欲望として感ずるのである。
 さて、かく我々に直接であって、凡ての精神現象の原因である純粋経験とは如何なる者であるか、これより少しくその性質を考えて見よう。先ず純粋経験は単純であるか、はた複雑であるかの問題が起ってくる。直下の純粋経験であっても、これが過去の経験の構成せられた者であるとか、また後にてこれを単一なる要素に分析できるとかいう点より見れば、複雑といってもよかろう。しかし純粋経験はいかに複雑であっても、その瞬間においては、いつも単純なる一事実である。たとい過去の意識の再現であっても、現在の意識中に統一せられ、これが一要素となって、新なる意味を得た時には、已に過去の意識と同一といわれぬ(Stout, Analytic Psychology, Vol. II, p. 45)。これと同じく、現在の意識を分析した時にも、その分析せられた者はもはや現在の意識と同一ではない。純粋経験の上から見れば凡てが種別的であって、その場合ごとに、単純で、独創的であるのである。次にかかる純粋経験の綜合は何処まで及ぶか。純粋経験の現在は、現在について考うる時、已に現在にあらずというような思想上の現在ではない。意識上の事実としての現在には、いくらかの時間的継続がなければならぬ(James, The Principles of Psychology, Vol. I. Chap. XV)。即ち意識の焦点がいつでも現在となるのである。それで、純粋経験の範囲は自ら注意の範囲と一致してくる。しかし余はこの範囲は必ずしも一注意の下にかぎらぬと思う。我々は少しの思想も交えず、主客未分の状態に注意を転じて行くことができるのである。たとえば一生懸命に断岸を攀《よ》ずる場合の如き、音楽家が熟練した曲を奏する時の如き、全く知覚の連続 perceptual train といってもよい(Stout, Manual of Psychology, p. 252)。また動物の本能的動作にも必ずかくの如き精神状態が伴うているのであろう。これらの精神現象においては、知覚が厳密なる統一と連絡とを保ち、意識が一より他に転ずるも、注意は始終物に向けられ、前の作用が自ら後者を惹起《じゃっき》しその間に思惟を入るべき少しの亀裂もない。これを瞬間的知覚と比較するに、注意の推移、時間の長短こそあれ、その直接にして主客合一の点においては少しの差別もないのである。特にいわゆる瞬間知覚なる者も、その実は複雑なる経験の結合構成せられたる者であるとすれば、右二者の区別は性質の差ではなくして、単に程度の差であるといわねばならぬ。純粋経験は必ずしも単一なる感覚とはかぎ轤ハ。心理学者のいうような厳密なる意味の単一感覚とは、学問上分析の結果として仮想した者であって、事実上に直接なる具体的経験ではないのである。
 純粋経験の直接にして純粋なる所以《ゆえん》は、単一であって、分析ができぬとか、瞬間的であるとかいうことにあるのではない。かえって具体的意識の厳密なる統一にあるのである
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