はかえって一層大なる統一を求めるのである。統一は実に意識のアルファでありまたオメガであるといわねばならぬ。宗教的要求はかくの如き意味における意識統一の要求であって、兼ねて宇宙と合一の要求である。
かくして宗教的要求は人心の最深最大なる要求である。我々は種々の肉体的要求やまた精神的要求をもっている。しかしそは皆自己の一部の要求にすぎない、独り宗教は自己其者の解決である。我々は知識においてまた意志において意識の統一を求め主客の合一を求める、しかしこはなお半面の統一にすぎない、宗教はこれらの統一の背後における最深の統一を求めるのである、知意未分以前の統一を求めるのである。我々の凡ての要求は宗教的要求より分化したもので、またその発展の結果これに帰着するといってよい。人智の未だ開けない時は人々かえって宗教的であって、学問道徳の極致はまた宗教に入らねばならぬようになる。世には往々何故に宗教が必要であるかなど尋ねる人がある。しかしかくの如き問は何故に生きる必要があるかというと同一である。宗教は己の生命を離れて存するのではない、その要求は生命其者の要求である。かかる問を発するのは自己の生涯の真面目《まじめ》ならざるを示すものである。真摯《しんし》に考え真摯に生きんと欲する者は必ず熱烈なる宗教的要求を感ぜずにはいられないのである。
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第二章 宗 教 の 本 質
宗教とは神と人との関係である。神とは種々の考え方もあるであろうが、これを宇宙の根本と見ておくのが最も適当であろうと思う、而《しか》して人とは我々の個人的意識をさすのである。この両者の関係の考え方に由って種々の宗教が定まってくるのである。然らば如何なる関係が真の宗教的関係であろうか。もし神と我とはその根柢において本質を異にし、神は単に人間以上の偉大なる力という如き者とするならば、我々はこれに向って毫《ごう》も宗教的動機を見出すことはできぬ。或はこれを恐れてその命に従うこともあろう、或はこれに媚びて福利を求めることもあろう。しかしそは皆利己心より出づるにすぎない、本質を異にせる者の相互の関係は利己心の外に成り立つことはできないのである。ロバルトソン・スミスも「宗教は不可知的力を恐れるより起るのではない、己《おのれ》と血族の関係ある神を敬愛するより起るのである、また宗教は個人が超自然力に対する随意的関係ではなくして、一社会の各員がその社会の安寧秩序を維持する力に対する共同的関係である」といっている。凡《すべ》ての宗教の本には神人同性の関係がなければならぬ、即ち父子の関係がなければならぬ。しかし単に神と人と利害を同じうし神は我らを助け我らを保護するというのでは未だ真の宗教ではない、神は宇宙の根本であって兼ねて我らの根本でなければならぬ、我らが神に帰するのはその本に帰するのである。また神は万物の目的であって即ちまた人間の目的でなければならぬ、人は各《おのおの》神において己《おの》が真の目的を見出すのである。手足が人の物なるが如く、人は神の物である。我々が神に帰するのは一方より見れば己を失うようであるが、一方より見れば己を得る所以《ゆえん》である。基督《キリスト》が「その生命を得る者はこれを失い我が為に生命を失う者はこれを得べし」といわれたのが宗教の最も醇《じゅん》なる者である。真の宗教における神人の関係は必ず斯《かく》の如き者でなければならぬ。我々が神に祈りまたは感謝するというも、自己の存在の為にするのではない、己が本分の家郷たる神に帰せんことを祈りまたこれに帰せしことを感謝するのである。また神が人を愛するというのもこの世の幸福を与うるのではない、これをして己に帰せしめるのである。神は生命の源である、我はただ神において生く。かくありてこそ宗教は生命に充ち、真の敬虔《けいけん》の念も出でくるのである。単に諦めるといい、任キという如きは尚自己の臭気を脱して居らぬ、未だ真の敬虔の念とはいわれない。神において真の自己を見出すなどいう語は或は自己に重きを置くように思われるかも知らぬが、これかえって真に己をすてて神を崇《たっと》ぶ所以である。
神人その性を同じうし、人は神においてその本に帰すというのは凡ての宗教の根本的思想であって、この思想に基づくものにして始めて真の宗教と称することができると思う。しかし斯の如き一思想の上においてもまた神人の関係を種々に考えることができる。神は宇宙の外に超越せる者であって、外より世界を支配し人に対しても外から働くように考えることもでき、または神は内在的であって、人は神の一部であり神は内より人に働くと考えることもできる。前者はいわゆる有神論 theism の考であって、後者はいわゆる汎神論 pantheism の考である。後者の如く考うる時は合理的であるかも知らぬが、多くの宗教家はこれに反対するのである。何となれば神と自然とを同一視することは神の人格性をなくすることになり、また万有を神の変形の如くに見做《みな》すのは神の超越性を失いその尊厳を害《そこな》うばかりでなく、悪の根源も神に帰せねばならぬような不都合も出てくるのである。しかしよく考えて見ると、汎神論的思想に必ずこれらの欠点があるともいえず、有神論に必ずこれらの欠点がないともいわれない。神と実在の本体とを同一視するも、実在の根本が精神的であるとすれば必ずしも神の人格性を失う事とはならぬ。またいかなる汎神論であっても個々の万物そのままが直《ただち》に神であるというのではない、スピノーザ哲学においても万物は神の差別相 modes である。また有神論においても神の全知全能とこの世における悪の存在とは容易に調和することはできぬ。こは実に中世哲学においても幾多の人の頭を悩ました問題であったのである。
超越的神があって外から世界を支配するという如き考は啻《ただ》に我々の理性と衝突するばかりでなく、かかる宗教は宗教の最深なる者とはいわれないように思う。我々が神意として知るべき者は自然の理法あるのみである、この外に天啓というべき者はない。勿論神は不可測であるから、我々の知る所はその一部にすぎぬであろう。しかしこの外に天啓なるものがあるにしても我々はこれを知ることはできまい、またもしこれに反する天啓ありとすれば、こはかえって神の矛盾を示すのである。我々が基督の神性を信ずるのは、その一生が最深なる人生の真理を含む故である。我々の神とは天地これに由りて位《くらい》し万物これに由りて育する宇宙の内面的統一力でなければならぬ、この外に神というべきものはない。もし神が人格的であるというならば、此《かく》の如き実在の根本において直に人格的意義を認めるとの意味でなくてはならぬ。然らずして別に超自然的を云々する者は、歴史的伝説に由るにあらざれば自家の主観的空想にすぎないのである。また我々はこの自然の根柢において、また自己の根柢において直に神を見ればこそ神において無限の暖さを感じ、我は神において生くという宗教の真髄に達することもできるのである。神に対する真の敬愛の念はただこの中より出でくることができる。愛というのは二つの人格が合して一となるの謂《いい》であり、敬とは部分的人格が全人格に対して起す感情である。敬愛の本には必ず人格の統一ということがなければならぬ。故に敬愛の念は人と人との間に起るばかりでなく、自己の意識中においても現われるのである。我々のきのう、きょうと相異なれる意識が同一なる意識中心を有するが故に自敬自愛の念を以て充されると同じように、我々が神を敬し神を愛するのは神と同一の根柢を有するが故でなければならぬ、我々の精神が神の部分的意識なるが故でなければならぬ。勿論神と人とは同一なる精神の根柢を有するも、同一なる思想を有する二人の精神が互に独立するが如く独立すると考えることもできるであろう。しかしこは肉体より見て時間および空間的に精神を区別したのである。精神においては同一の根柢を有する者は同一の精神である。我々の日々に変ずる意識が同一の統一を有するが故に同一の精神と見られるが如くに、我々の精神は神と同一体でなければならぬ。かくして我は神において生くというのも単に比喩ではなくして事実であることができる(ウェストコットというrショップも約翰伝《ヨハネでん》第十七章第二十一節に註して「信者の一致とは単に目的感情等の徳義上の合一 moral unity ではなくして生命の合一 vital unity である」といっている)。
かく最深の宗教は神人同体の上に成立することができ、宗教の真意はこの神人合一の意義を獲得するにあるのである。即ち我々は意識の根柢において自己の意識を破りて働く堂々たる宇宙的精神を実験するにあるのである。信念というのは伝説や理論に由りて外から与えらるべき者ではない、内より磨き出さるべき者である。ヤコブ・ベーメのいったように、我々は最深なる内生 die innerste Geburt に由りて神に到るのである。我々はこの内面的再生において直に神を見、これを信ずると共に、ここに自己の真生命を見出し無限の力を感ずるのである。信念とは単なる知識ではない、かかる意味における直観であると共に活力であるのである。凡て我々の精神活動の根柢には一つの統一力が働いている、これを我々の自己といいまた人格ともいうのである。欲求の如きはいうまでもなく、知識の如き最も客観的なる者もこの統一力即ち各人の人格の色を帯びておらぬ者はない。知識も欲望も皆この力に由りて成立するのである。信念とはかくの如く知識を超越せる統一力である。知識や意志に由りて信念が支えられるというよりも、むしろ信念に由りて知識や意志が支えられるのである。信念はかかる意味において神秘的である。信念が神秘的であるというのは知識に反するの意味ではない、知識と衝突する如き信念ならばこれを以て生命の本となすことは出来ぬ。我々は知を尽し意を尽したる上において、信ぜざらんと欲して信ぜざる能わざる信念を内より得るのである。
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第三章 神
神とはこの宇宙の根本をいうのである。上に述べたように、余は神を宇宙の外に超越せる造物者とは見ずして、直《ただち》にこの実在の根柢と考えるのである。神と宇宙との関係は芸術家とその作品との如き関係ではなく、本体と現象との関係である。宇宙は神の所作物ではなく、神の表現 manifestation である。外は日月|星辰《せいしん》の運行より内は人心の機微に至るまで悉《ことごと》く神の表現でないものはない、我々はこれらの物の根柢において一々神の霊光を拝することができるのである。
ニュートンやケプレルが天体運行の整斉を見て敬虔の念に打たれたというように我々は自然の現象を研究すればする程、その背後に一つの統一力が支配しているのを知ることができる。学問の進歩とはかくの如き知識の統一をいうにすぎないのである。かく外は自然の根柢において一つの統一力の支配を認むるように、内は人心の根柢においても一つの統一力の支配を認めねばならぬ。人心は千状万態殆ど定法なきが如くに見ゆるも、これを達観する時は古今に通じ東西に亙《わた》りて偉大なる統一力が支配しているようである。更に進んで考える時は、自然と精神とは全然没交渉の者ではない、彼此《ひし》密接の関係がある。我々はこの二者の統一を考えずには居られない、即ちこの二者の根柢に更に大なる唯一の統一力がなければならぬ。哲学も科学も皆この統一を認めない者はないのである。而《しか》してこの統一が即ち神である。勿論唯物論者や一般の科学者のいうように、物体が唯一の実在であって万物は単に物力の法則に従うものならば神というようなものを考えることはできぬであろう。しかし実在の真相は果してかくの如き者であろうか。
余が前に実在について論じたように、物体というも我々の意識現象を離れて別に独立の実在を知り得るのではない。我々に与えられたる直接経験の事実はただこの意識現象あるのみである。空間といい、時間といい、
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