衝突することがないと断言する。元来現象に内外の区別はない、主観的意識というも客観的実在界というも、同一の現象を異なった方面より見たので、具体的にはただ一つの事実があるだけである。しばしばいったように世界は自己の意識統一に由りて成立するといってもよし、また自己は実在の或特殊なる小体系といってもよい。仏教の根本的思想であるように、自己と宇宙とは同一の根柢をもっている、否|直《ただち》に同一物である。この故に我々は自己の心内において、知識では無限の真理として、感情では無限の美として、意志では無限の善として、皆実在無限の意義を感ずることができるのである。我々が実在を知るというのは、自己の外の物を知るのではない、自己自身を知るのである。実在の真善美は直に自己の真善美でなければならぬ。然らば何故にこの世の中に偽醜悪があるかの疑が起るであろう。深く考えて見れば世の中に絶対的真善美という者もなければ、絶対的偽醜悪という者もない。偽醜悪はいつも抽象的に物の一面を見て全豹《ぜんぴょう》を知らず、一方に偏して全体の統一に反する所に現われるのである(実在第五章においていったように、一面より見れば偽醜悪は実在成立に必要である、いわゆる対立的原理より生ずるのである)。
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 アウグスチヌスに従えば元来世の中に悪という者はない、神より造られたる自然は凡《すべ》て善である、ただ本質の欠乏が悪である。また神は美しき詩の如くに対立を以て世界を飾った、影が画の美を増すが如く、もし達観する時は世界は罪を持ちながらに美である。
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 試《こころみ》に善の事実と善の要求との衝突する場合を考えて見ると二つあるのである。一は或行為が事実としては善であるがその動機は善でないというのと、一は動機は善であるが事実としては善でないというのである。先ず第一の場合について考えて見ると、内面的動機が私利私欲であって、ただ外面的事実において善目的に合うているとしても、決してそれが人格実現を目的とする善行といわれまい。我々は時にかかる行為をも賞讃することがあるであろう。しかしそは決して道徳の点より見たのでなく、単に利益という点より見たのである。道徳の点より見れば、かかる行為はたとい愚であっても己《おのれ》が至誠を尽した者に劣っている。或は一個人が己自身を潔《いさぎよ》うする一人の善行よりも、たとい純粋なる善動機より出でずとするも、多数の人を利する行為の方が勝《まさ》っているというのでもあろう。しかし人を益するというにも色々の意味があって、単に物質上の利益を与うるというならば、その利益が善い目的に用いらるれば善となるが、悪い目的に用いらるればかえって悪を助けるようにもなる。またいわゆる世道人心を益するという真に道徳的|裨益《ひえき》の意味でいうならば、その行為が内面的に真の善行でなかったならばそは単に善行を助くる手段であって、善行|其者《そのもの》ではない、たとい小であっても真の善行其者とは比較はできないのである。次に第二の場合について考えて見よう。動機が善くとも、必ずしも事実上善とはいわれないことがある。個人の至誠と人類一般の最上の善とは衝突することがあるとはよく人のいう所である。しかしかくいう人は至誠という語を正当に解しておらぬと思う。もし至誠という語を真に精神全体の最深なる要求という意味に用いたならば、これらの人のいう所は殆ど事実でないと考える。我々の真摯なる要求は我々の作為したものではない、自然の事実である。真および美において人心の根本に一般的要素を含むように、善においても一般的要素を含んでおる。ファウストが人世について大煩悶の後、夜深く野の散歩より淋しき己《おの》が書斎にかえった時のように、夜静に心|平《たいら》なるの時、自らこの感情が働いてくるのである(Goethe, Faust, Erster Teil, Studierzimmer)。我々と全く意識の根柢を異にせるものがあったならばとにかく、凡《すべ》ての人に共通なる理性を具した人間であるならば、必ず同一に考え同一に求めねばならぬと思う。勿論人類最大の要求が場合に由っては単に可能性に止まって、現実となって働かぬこともあるであろう、しかしかかる場合でも要求がないのではない、蔽われているのである、自己が真の自己を知らないのである。
 右に述べたような理由に由って、我々の最深なる要求と最大の目的とは自ら一致するものであると考える。我々が内に自己を鍛錬して自己の真体に達すると共に、外自ら人類一味の愛を生じて最上の善目的に合うようになる、これを完全なる真の善行というのである。かくの如き完全なる善行は一方より見れば極めて難事のようであるが、また一方より見れば誰にもできなければならぬことである。道徳の事は自己の外にある者を求むるのではない、ただ自己にある者を見出すのである。世人は往々善の本質とその外殻とを混ずるから、何か世界的人類的事業でもしなければ最大の善でないように思っている。しかし事業の種類はその人の能力と境遇とに由って定まるもので、誰にも同一の事業はできない。しかし我々はいかに事業が異なっていても、同一の精神を以て働くことはできる。いかに小さい事業にしても、常に人類一味の愛情より働いている人は、偉大なる人類的人格を実現しつつある人といわねばならぬ。ラファエルの高尚優美なる性格は聖母においてもその最も適当なる実現の材料を得たかも知れぬが、ラファエルの性格は啻《ただ》に聖母においてのみではなく、彼の描きし凡ての画において現われているのである。たといラファエルとミケランジェロと同一の画題を択《えら》んだにしても、ラファエルはラファエルの性格を現わしミケランジェロはミケランジェロの性格を現わすのである。美術や道徳の本体は精神にあって外界の事物にないのである。
 終に臨んで一言して置く。善を学問的に説明すれば色々の説明はできるが、実地上真の善とはただ一つあるのみである、即ち真の自己を知るというに尽きて居る。我々の真の自己は宇宙の本体である、真の自己を知れば啻に人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合するのである。宗教も道徳も実にここに尽きて居る。而《しか》して真の自己を知り神と合する法は、ただ主客合一の力を自得するにあるのみである。而してこの力を得るのは我々のこの偽我を殺し尽して一たびこの世の欲より死して後|蘇《よみがえ》るのである(マホメットがいったように天国は剣の影にある)。此《かく》の如くにして始めて真に主客合一の境に到ることができる。これが宗教道徳美術の極意である。基督教《キリストきょう》ではこれを再生といい仏教ではこれを見性《けんしょう》という。昔ローマ法皇ベネディクト十一世がジョットーに画家として腕を示すべき作を見せよといってやったら、ジョットーはただ一円形を描いて与えたという話がある。我々は道徳上においてこのジョットーの一円形を得ねばならぬ。
[#改丁]

 第四編 宗  教

   第一章 宗 教 的 要 求

 宗教的要求は自己に対する要求である、自己の生命についての要求である。我々の自己がその相対的にして有限なることを覚知すると共に、絶対無限の力に合一してこれに由りて永遠の真生命を得んと欲するの要求である。パウロが「すでにわれ生けるにあらず基督《キリスト》我にありて生けるなり」といったように、肉的生命の凡《すべ》てを十字架に釘付け了《おわ》りて独り神に由りて生きんとするの情である。真正の宗教は自己の変換、生命の革新を求めるのである。基督が「十字架を取りて我に従はざる者は我に協《かな》はざる者なり」といったように、一点なお自己を信ずるの念ある間は未だ真正の宗教心とはいわれないのである。
 現世利益の為に神に祈る如きはいうに及ばず、徒《いたず》らに往生を目的として念仏するのも真の宗教心ではない。されば『歎異鈔』にも「わが心に往生の業をはげみて申すところの念仏も自行になすなり」といってある。また基督教においてもかの単《ひとえ》に神助を頼み、神罰を恐れるという如きは真の基督教ではない。これらは凡て利己心の変形にすぎないのである。しかのみならず、余は現時多くの人のいう如き宗教は自己の安心の為であるということすら誤っているのではないかと思う。かかる考をもっているから、進取活動の気象を滅却して少欲無憂の消極的生活を以て宗教の真意を得たと心得るようにもなるのである。我々は自己の安心の為に宗教を求めるのではない、安心は宗教より来る結果にすぎない。宗教的要求は我々の已《や》まんと欲して已む能わざる大なる生命の要求である、厳粛なる意志の要求である。宗教は人間の目的|其者《そのもの》であって、決して他の手段とすべき者ではないのである。
 主意説の心理学者のいうように、意志は精神の根本的作用であって、凡ての精神現象が意志の形をなしているとすれば、我々の精神は欲求の体系であって、この体系の中心となる最も有力なる欲求が我々の自己であるということとなる。而《しか》してこの中心より凡てを統一して行くこと即ち自己を維持発展することが我々の精神的生命である。この統一の進行する間は我々は生きているのであるが、もしこの統一が破れたときには、たとい肉体において生きているにもせよ、精神においては死せるも同然となるのである。然るに我々は個人的欲求を中心として凡てを統一することができるであろうか。即ち、個人的生命はどこまでも維持発展することのできるものであろうか。世界は個人の為に造られたる者ではなく、また個人的欲求が人生最大の欲求でもない。個人的生命は必ず外は世界と衝突し内は自ら矛盾に陥らねばならぬ。ここにおいて我々は更に大なる生命を求めねばならぬようになる、即ち、意識中心の推移に由りて更に大なる統一を求めねばならぬようになるのである。かくの如き要求は凡て我々の共同的精神の発生の場合においてもこれを見ることができるのであるが、ただ宗教的要求はかかる要求の極点である。我々は客観的世界に対して主観的自己を立しこれに由りて前者を統一せんとする間は、その主観的自己はいかに大なるにもせよ、その統一は未だ相対的たるを免れない、絶対的統一はただ全然主観的統一を棄てて客観的統一に一致することに由りて得られるのである。
 元来、意識の統一というのは意識成立の要件であって、その根本的要求である。統一なき意識は無も同然である、意識は内容の対立に由りて成立することができ、その内容が多様なればなる程一方において大なる統一を要するのである。この統一の極まる所が我々のいわゆる客観的実在というもので、この統一は主客の合一に至ってその頂点に達するのである。客観的実在というのも主観的意識を離れて別に存在するのではない、意識統一の結果、疑わんと欲して疑う能わず、求めんと欲してこれ以上に求むるの途なきものをいうのである。而してかくの如き意識統一の頂点即ち主客合一の状態というのは啻《ただ》に意識の根本的要求であるのみならずまた実に意識本来の状態である。コンジャックがいったように、我々が始めて光を見た時にはこれを見るというよりもむしろ我は光其者である。凡て最初の感覚は小児に取りては直《ただち》に宇宙其者でなければならぬ。この境涯においては未だ主客の分離なく、物我一体、ただ、一事実あるのみである。我と物と一なるが故に更に真理の求むべき者なく、欲望の満すべき者もない、人は神と共にあり、エデンの花園とはかくの如き者をいうのであろう。然るに意識の分化発展するに従い主客相対立し、物我相|背《そむ》き、人生ここにおいて要求あり、苦悩あり、人は神より離れ、楽園は長《とこし》えにアダムの子孫より鎖《とざ》されるようになるのである。しかし意識はいかに分化発展するにしても到底主客合一の統一より離れることはできぬ、我々は知識において意志において始終この統一を求めているのである。意識の分化発展は統一の他面であってやはり意識成立の要件である。意識の分化発展するの
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