実とは、意識の最受動的なる状態即ち感覚であるといわねばならぬ。しかし此《かく》の如き考は学問上分析の結果として出来た者を、直接経験の事実と混同したものである。我々の直接経験の事実においては純粋感覚なる者はない。我々が純粋感覚といっている者も已《すで》に簡単なる知覚である。而《しか》して知覚は、いかに簡単であっても決して全く受動的でない、必ず能動的即ち構成的要素を含んで居る(この事は空間的知覚の例を見ても明《あきらか》である)。聯想とか思惟とか複雑なる知的作用に至れば、なお一層この方面が明瞭となるので、普通に聯想は受動的であるというが、聯想においても観念聯合の方向を定むる者は単に外界の事情のみでは無く、意識の内面的性質に由るのである。聯想と思惟との間にはただ程度の差あるのみである。元来我々の意識現象を知情意と分つのは学問上の便宜に由るので、実地においては三種の現象あるのではなく、意識現象は凡てこの方面を具備しているのである(たとえば学問的研究の如く純知的作用といっても、決して情意を離れて存在することはできぬ)。しかしこの三方面の中、意志がその最も根本的なる形式である。主意説の心理学者のい
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